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2016年8月31日水曜日

ハッピーサッドを知れ『シング・ストリート 未来へのうた(Sing Street)』

 いい加減2016年の映画の一本や二本ぐらいレビューしろやということで。私が今年一番の映画にして、今年一番のシン~~であると信じてやまない映画をご紹介します。
シング・ストリート』です。

 正直、この映画に関して語ろうとしたら延々と語ってられるんじゃないかってぐらい。っていうか、宇多丸シネマハスラーかヒデチューを見ればもっと濃ゆい話が聴けるんじゃないか……。


 本作の監督ジョン・カーニーは、アイルランド出身の映画監督であると同時、ザ・フレイムス(The Frames)というバンドでベーシストとして活躍し、かつまた同バンドのミュージックビデオの撮影などもしていた人物。監督自身、音楽には造詣が深く、同監督作品である『ONCE ダブリンの街角で』、『はじまりもうた』も音楽を取り扱った映画として評価が高い。『ONCE』ではアカデミー賞歌曲賞とグラミー賞を受賞。『はじまりのうた』ではアカデミー賞歌曲賞にノミネート。そのような音楽を取り扱った映画で一気に名を上げたジョン・カーニーの最新作が『シング・ストリート 未来へのうた』だ。
 本作の大きな要素としてあげられるのは、80’s UKロック。そして少年の成長・青春物語だろう。
 本作では、MotörheadDuran DuranThe CureThe JamDaryl Hall & John Oates、ほかDavid BowieJoy Divisionといった70~80年代に活躍した名だたるアーティストが登場する。特に80年代、音楽シーンを席巻したのはMTV、ミュージックビデオのブーム。MotörheadStay Cleanに始まり、コナーたち兄弟がDuran DuranRioMVを見るシーンへと繋がる。彼らの父がBeatlesに言及しながらも、子供たちが食い入るようにテレビを見る姿はまさしく当時の音楽シーンのありかたを示しているだろう。当時はまさにMTV全盛期だ!
 そう、当時の流行はミュージックビデオにあった。そんなロンドンの音楽に惹かれ、コナーはバンドを結成。バンドの仲間と共にビデオの制作を始めていく。そしてその随所にも、様々なオマージュが見て取れる。コナーたちのバンドSing Streetの初めての曲になる『モデルの謎(The Riddle Of The Model)』のビデオは、お世辞にも良いできとは言えなかった。衣装は自宅から持ってきた有り合わせで統一感はないし、メンバーはやりたい放題。しかしそれは意図されたナンセンスさだと私は思った。当時のMVがどれもセンスのあるものだったわけではない。もちろんナンセンスなものもたくさんあった。代表格はJourneyの『Separate Ways』だろう。


 JourneyはMVを嫌って、一日でこのビデオを作ったなんて話もあるが、この絶妙にダサいビデオ、『モデルの謎』と似てないだろうか?


 ほら、似てる似てる。似てるって……。
 と、そんなMVのオマージュにあふれた本作。随所にわかる人にはわかるネタが仕込まれている。分かった人間からすれば楽しくて仕方ない。ジョン・カーニー、お前分かってるな! と(私は20そこそこのクソガキながら)一杯付き合いたいぐらいだ。



 続く曲、『A Beautiful Sea』では、そのオリジナルをThe Cureに辿ることが出来る。モデルを目指しロンドンに憧れる少女ラフィーナとうまく行かないなかで、コナーの兄であるブレンダンが「悲しみの喜び(Happy sad)を知れ」と渡した一枚のレコードがThe Cureだった。このHappy Sadは本作における重要なテーマの一つだろう。主人公コナーと、ヒロインのラフィーナの共通点はロンドンへの憧れである。ラフィーナはモデルを目指してロンドンへ。そしてコナーは音楽のためにロンドンを目指す。青春の中、うまくいくことばかりではない。Happy Sadというフレーズは、正直彼らの世代を駆け抜けてきたばかり(今もじゃないのか?)の自分にはかなりこたえた。


 と、ロンドンが彼らにとって夢の音楽とファッションの最先端として描かれる本作。そのため80年代アイルランドを舞台にした作品ではあるものの、フィーチャーされる音楽はイギリスのものばかりで、ダブリン出身のロックバンドである『U2』は取り扱われない。これに関しては、彼らSing StreetのモデルこそがU2であるという説もある。というのも、Sing Streetは高校の掲示板の張り紙を見たメンバーが集まってバンドを組んだが、U2もまさに同じ軌跡をたどっているからだ。そのためSing StreetはU2のことを描いているのでは? とも言われている。しかし作品の舞台は85年であるため、その点では合致しないだろう。それに私としては、あくまでもイギリス・ロンドンを象徴的に描くためにU2は出なかったものと考えている。

 さて、そんな当時の音楽やファッションが映像へ効果的に組み込まれることで、ファンとしてはニヤニヤしながら当時の音楽を懐かしめる作りになっている。だが、シングストリートの凄さはそこだけじゃあない。本当の素晴らしさはオリジナル曲にある。
 彼らSing Streetのオリジナル曲もまた80年代のテイストを持ちながらも、ただのオマージュに終わらずに80sの名曲に並んでも遜色ないものとなっている。そのようなオリジナル曲の仕掛け人こそがゲイリー・クラークだ。彼もまた80年代に活躍したスコットランドのバンドDanny Wilsonの中心人物であり、「Mary's Prayer」などの名曲を残している。


 オリジナル曲がオマージュや懐古に終わらないのがこの作品のすごいところだ。作品終盤、コナーは徐々に『Girls』や『Brown Shoes』など自分の音楽を確立していく。この曲がまたいい。
 そしてラストシーン、コナーとラフィーナの二人は船でロンドンを目指す。しかしその道中、荒波と巨大な船を目の前にして、二人の道の暗さを暗示したところで映画は終わる。映画『卒業』のラストシーンを彷彿とさせるこのシーンは、夢を追いかける二人の人生が決して楽なものではないと暗示しているのだろう。


 私はこの作品をすでに7月末に有楽町にて観ていた。上映一時間以上前だというのに席は混雑しており、最終的には平日の昼間だというのに満席という異例の事態になっていた。しかし、それだけの価値がある作品だとは確かに感じられた。ジョン・カーニーとゲイリー・クラークが手がけたオリジナル曲は、当時の名曲にも引けをとらない素晴らしい楽曲ばかりで、思わず上映後すぐに売店に寄って「サントラ下さい!」と言ってしまったほどだ。
 某映画レビュアー曰く、「ハマる人間はとことんハマる映画」だというが、私もその意見には賛成で、特にUKロックや80年代音楽シーンに思い入れがある人間にはたまらないものがある。特に私はデヴィッド・ボウイやジョイ・ディヴィジョン、ニューオーダーやザ・キュアーのファンであったので、キュアーのマネをするシーンにはとても心を惹かれたし、MTV全盛期である80年代を思わせる様々な演出は楽しくて仕方がなかった。



 A Beautiful Seaは言うまでもなくキュアーを彷彿とさせる感じがツボに入った。そのうえ、MVを作るシーンがとてもかわいらしかった。演奏中にみんなでクラップを入れるシーンなど「演奏止まるじゃん!」と思わず言いたくなってしまうが、しかし80年代のMVはそんな感じだったなぁと、生まれる前の事ながら懐かしいように感じられた。


Drive It Like You Stole ItUSダンスミュージックを思わせる曲で、特にリハーサルでコナーがBTTFにあるようなプロムの中で歌うシーンは、夢の中でありながら現実との境界が地続きとなっている、この映画の寓話的なイメージを印象付けさせる重要なシーンだった。彼が思い描く音楽のとおりにならないのは、悲哀を感じるところでもありながら、しかしこの映画における彼らの卓越した音楽そのすべてが実はコナーの妄想、彼が自分たちの音楽に酔いしれてそう見えているだけじゃないか、とさえ思わせる危うさが感じられた。


Brow Shoesは、コナーが初めて自分のことを詩にした曲だろう。それまでデュラン・デュランやキュアーといったバンド(メイクに至ってはお前はボウイかなどと野次られていてとてもかわいかった)のオマージュばかりだったのが、最後の最後で彼の音楽になる。憧れから脱却し、彼のスタイルになる音楽は、映画のラストをより際立たせる曲になっていると思う。
 他にもGirlsの歌詞の伏線や、The Riddle Of The Modelのとってつけたようなアジアンテイストとか(ニューウェーブ全盛期である)、ライブではひんしゅくを買うと言われながらも歌うバラード曲To Find Youなど捨て曲は一つもないというぐらい、サントラが素晴らしい。そのうえ映画での使われ方も工夫を凝らされていて、どの曲も好きになる箇所がある。
 UKロック、80’sミュージックが好きな人間は必ず気にいる! それだけでなく、青春映画としてすべての兄弟たちに捧げるべき2016年最高の一本だ! おなじシンでも見るべきはこっちだぞ諸君!!

2016年1月22日金曜日

おみそれいたしました。ガルパンはいいぞ! 『ガールズ&パンツァー 劇場版』

 まわりじゃあどいつもこいつもガルパン、ガルパン……。何かに付けちゃあ「ガルパンはいいぞ」とコイツら何言ってんだ。クリード見ろよ、クリード! と、この間まで語っていたこの私。ガルパンブームも少し下火になってきたようなので、見てきました。劇場版ガルパン。
 正直なところを言いますと、ほぼ予備知識無しで見に行きました。知っていることといえば、


 ・戦車がスポーツになってる。
 ・戦車道というスポーツ。女子の嗜みらしい。
 ・なんか姉妹で色々やるらしい。


 ぐらいなもの。
 ですが、冒頭に三分ちょいでさくっと解説をしてくれたおかげで、まあ、なんとなくは世界観が分かった気がします。
 でまあ、機乃的にこの作品が良かったかどうか、率直に申し上げれば、
 
  良作、であります。

 まあ、とは言え冒頭からそんなふうに思ってた訳じゃあ無いんですよ。この映画の冒頭は、先述のように今までのザックリとした解説が為されます。廃校の危機を救うために、何とか頑張って戦車道大会で優勝しましたよ~ぐらいなもんの軽い解説。で、それが終わると直後には大会後のエキシビションマッチが始まります。で、いきなり戦車の砲撃から始まるもんですから、私も期待したんですね。まわりがアレだけスゲエスゲエ言う戦車アクションが如何ほどのものかと。しかしながら正直、冒頭のアクションはダルい。確かに、街中で戦車同士がドンパチするのはアニメならではの映像ではありますし、たくさんの戦車が一同に会して戦う姿など、それこそアニメでしか出来ない。ですが冒頭のアクションシーン。ここは正直頂けなかった。前評判が良かったせいも有りますが、ここで一気に、えー、言うほどカッコ良くねえぞこれと思ってしまった。
 しかも続くシーン。まあ、日常パートというべきでしょう。そこがなんとも萌アニメ的。まあ、そりゃそうなんですが。アニメの日常パートなんてどこもかしこもそんなようなもんで、イマイチ洋画ばっかり見ている人間からすれば鼻につくアニメクサさみたいに感じるわけです。
 そういうわけで、冒頭の言う程でもない戦車アクションと、鼻につく日常パート。このせいで僕の中では、
 腐っても深夜アニメは、深夜アニメ。
 というような意見にまとまりました。まあ、これならお前たちを論破出来るな。なーにが「ガルパンはいいぞ!」だ。という話。


 しかし、終盤にかけてのアクション。廃校撤回をかけての大学選抜チームと戦うんですが。ここで今までの私の評価はすっ飛びました。

 戦車にこんなアクションさせんの!?
 
 と、度肝を抜かされる展開の目白押し。艦砲射撃ばりの巨砲の大迫力! ドリフトする戦車! 戦車が戦車を踏み台にしたァ!? 履帯パージだとォ!? 砲撃で加速ゥ!?
 と、見たこともない、度肝を抜かれる演出ばかり。大体、洋画、戦争映画での戦車の立ち位置というと、歩兵と一緒に行動する、強力だけど動きがない。イマイチ派手さにかけるイメージ。某007の戦車アクションとか、そういうアレもありますが、基本的にミリタリー調の作品だと、戦車というのは歩兵の脅威だとか、そういうような描かれ方ばかり。しかしガルパンは、そうではない。まるでロボットアニメや、カーアクション映画を見ているように戦車を楽しめる。戦車ってこんなに動けるの!? という感じ。戦車の可能性を一気に押し広げたと言っていい。

 そして何より、私が特に気に入ったのはラスト、西住姉妹が協力して大学選抜チームのリーダー島田 愛里寿を倒すシーン。ここの何がすごいかって、西住みほの主観での長回し。そして、キャラが全くしゃべらないという所。萌アニメにはあるまじきシーンだとは思いません!? かわいい女の子キャラは一人称が故に映らないし、声優さんのかわいい声さえ出てこない。まったく喋らず、姉妹のアイコンタクトと無言のサインだけで全てが通じあい、主観で戦いが進む。そして、ラスト、ようやく三人称になり、姉妹の協力で決着が着く……!

 なんだこれ、すげえぞ!!
 
 と、思わず新宿バルト9でスタンディングオベーションしそうになる気持ちを抑える機乃。
 ともかくラストは、まったく「深夜アニメ」という枠を超越したような演出に思えました。かといって、実写映画じゃあそうそう描けない「ありえない機動」をする戦車を描く。それはアニメにしか出来ないことであるし、仮に実写映画で出来たとしても、CGゴリゴリで萎えてしまうだろう。
 これは深夜アニメという枠にはとらわれない。一つの「エンタメ映画」の完成形であると感じた。アニメーションでしか出来ない戦車の描き方。しかし、深夜アニメではない、その枠を超えたエンタメ映画。
 まったくこれはこの一言に尽きる。

 ガルパンはいいぞ。

 だが正直な所、TV版が劇場版並の演出なはずがないと思うので、TV版を見る気になれない機乃であった。

2016年1月9日土曜日

漢は立ち上がり続ける。 『クリード チャンプを継ぐ男』

 ロッキーは僕の大好きな映画の一つだ。特に1の不器用ながらも立ち上がるロッキーと、ファイナルの老いてなお戦い続ける彼の勇姿が大好きだ。というわけで、その続編。ロッキーのミームを受け継ぐ、宿敵アポロの息子の物語、クリード。遅ればせながらも見てきた。
 一言で言うなれば、

クリードはいいぞ。(便乗)

 である。
 何がいいかと言えば、この作品。ロッキーのミームを受け継ぎながらも、独自の味を生み出しているからいい。そこなのだ。
 まず興奮するのがサントラだ。ロッキーシリーズとは違い、今風でクールなラップ風な曲が多い。しかしながら、「あれ、これどっかで聴いたぞ」みたいなメロディが。過去のメインテーマを踏襲したサントラが非常にいじらしいのだ。これはロッキーのサントラ聴き直して、もう一回見に行こうかとさえ考えたぐらい。
 まあ、サントラは聴いてもらえばいいだろう。
 で、ロッキーのミームと言えば何なのか。それは、勝ち負けじゃないということだ。だから僕はロッキーが好きなのだ。
 決して主人公が勝つとか、そういうご都合主義ではない。ボクシングは殺すか殺されるか、と劇中で繰り返されるが、まさにそれ。殺すか殺されるか、その戦いの中で立ち上がり、戦い続けることが出来るか。それが作品の根幹であるのだ。一人の男が立ち上がり、ボロボロになっても戦い続ける。それによって変わる何かがある。ロッキーの良さはまさしくそこにあるのだ。

 今回スタローンは、主人公ドニーのコーチ役となったロッキーを好演している。彼はもう老いぼれ、むろん戦うことなど出来なくなってしまった。その姿に思わず僕も悲しさを隠しきれなかった。遂には病魔に侵され、死を覚悟するロッキー。「もしかしてロッキー死ぬんじゃ……」という不安に、劇中何度も駆られた。本当に怖かった。だが、それでもロッキーは『立ち続ける』のである。
 『ロッキー』は、一人の男が愛する女の為に、息子の為に、立ち続ける話だった。だが、『クリード』はそれだけではない。チームであり、家族である仲間たちが、助け合い、そして戦い続ける。老い先短いロッキーの病魔との戦い、そして主人公ドニーの『クリード』という宿命との戦い。そして、シリーズ史上最高とも言えようボクシングシーンだ。ボロボロになりながらも、チャンピオンに果敢に挑むドニー。本当の試合を見ているような緊張感、そして興奮。
 ロッキー・ザ・ファイナルより九年、ロッキーのミームを受け継いだ作品は、単純な『続編』ではなく、新たな『伝説』となるだろう。

2015年11月30日月曜日

クレイグボンド史上、最もボンドらしいボンド。『007 スペクター(Spectre)』

 さて、先日先行上映に行ってきたのですが、完全に放置気味なこのブログに書こうか書くまいかと小一時間考え、結局書くことにしました。

 007シリーズ最新作にして、クレイグボンド最終作と噂されるスペクター。当のダニエル・クレイグは、次回作までは続けるとかなんとか言ってますが、正直言うとクレイグボンドのストーリー(カジノ・ロワイヤル、慰めの報酬、スカイフォール、スペクターの一連の流れ)は、一応の決着を見たような気がします。これで続投というのは、ちょっとどうかな……という感じ。
 しかし、当初は「ボンドの癖にAT限定かよ!」とか「お硬すぎてボンドじゃねえ!」とか何とか言われてましたが、しかしスペクターでは大分馴染んだように思えました。
 そもそもボンドらしさとはなんぞや? 007シリーズ全てを見たわけでない私がこういうのは僭越ですが、しかしボンドのオリジナリティというのは、結局のところショーン・コネリーにあると思われます。で、ショーン・コネリーのボンドっぽさといえば、『ユーモアと気品の中にある冷たさ』では無いでしょうか。女たらしでジョークを織り交ぜ、優雅に振る舞うボンド。しかし、そのユーモアと気品の裏には、冷然と殺しを行う冷たさが有ります。そのエレガントかつクールな印象が、ボンドらしさの一つではないでしょうか。
 では、クレイグボンドはどうでしょう? 彼の場合、すごく硬い演技が何度も示唆されて来ました。決して演技が下手くそなんじゃなくて、役人みたいな印象(そりゃMI6なんだから役人だろ)があるんですよね。常に眉間にしわを寄せて、むすっとして。たしかに、それで殺し屋的な冷たさはあるですが、しかし冷たさを隠すユーモアと優雅さがない。クレイグボンドにある違和感は、それでしょう。
 しかしスペクターでは、それも幾分解決したように思われます。スカイフォールでは、その映像美によってボンドの優雅さを演出することに成功した、と思います。一方でスペクターでは、どちらかと言えばユーモアに重きを置いた感じがあります。スカイフォールがファン向けで、少し芸術っぽさを演出したのなら。スペクターは往年のファンの為のオマージュをしつつ、ユーモラスな娯楽映画としての立ち位置に戻ってきた、といっていいでしょう。現に笑わせるシーンが幾度もありましたし、爆破シーンなんて圧巻。銃撃戦も格闘戦もカーチェイスも盛り沢山。ガジェットもたくさん登場し、更に過去作を思わせるシーンがいくつもありました。娯楽映画としてのあるべき姿に立ち返った気もします。
 しかし、それゆえに敵の描写があまりに陳腐。ありきたりな敵であったようにも考えられます。まあ、スパイ映画なんていくらでもありますし。そもそも007自体もう24作目です。ネタ切れは仕方がない。
 キングスマンやコードネームU.N.C.L.E(実はまだ見てない。明日見ます)など、今年は007に続け! というようなスパイ映画が目白押しでした。そんななかで、その総本山たる007は、娯楽映画かくあるべし! という姿に立ち返り、オールドフューチャーな作品を作り上げてくれました。古典的かつ確立したこのオリジナリティは、どのスパイ映画にもない『ジェームズ・ボンド』というブランドゆえでしょう。
 まあ、今回特に良かったのは、Qがスカイフォールに比べて大活躍してたり、クレイグボンドが女たらしのユーモラスな英国紳士になってたりと、様式美にそってくれたところだと思います。むろん、スカイフォールからの映像美も欠けてはいません。オープング前の死者の日のお祭りのシーンは、特に美しかったです。

 クレイグボンド史上最も007らしい007。これが彼の最後となるかは不明だが、一応の決着はついた! 劇場で見る価値は十二分にある。





 ところで女版ジェームズ・ボンドことジェイミー・ボンド企画を書いてますが、いつのまにレズビアン設定になってるんだ。

2015年6月24日水曜日

最高に頭の悪い映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード(”Mad Max: Fury Road”)』

 公開日が攻殻と被ってたんで、どちらを見に行こうかと悩んでいた本作。いや、こっちをとっとと見るんだったと後悔してる。
 マッドマックスと言えば、メル・ギブソン主演の大人気シリーズ。荒廃した未来を舞台に、石油を奪い合う。まさしく世紀末を描いた作品だ。
 北斗の拳の元ネタ、と言えばしっくりくる人も多いだろう。

 さて、マッドマックスは2が大好きな私。だが、本作はもう、ソレ以上と言ってもいい。なんてったって最高に頭が悪いのだ。これを作ってる連中も、キャラクター達も、最高に頭が悪い!
 言う慣ればこの世界、ガソリン車や武器兵器などはそのまま、人間の知能レヴェルが中世、いやソレ以前に戻ってしまったと言うような世界だ。人々は、新たな資源を得るために奔走するのではなく、今あるソレを奪い合うために暴力の限りを尽くす。通信などはなく、光信号やら軍楽隊(ギターやドラム。ギターに至っては火を噴く)。車両に乗った槍部隊まで。なんかもう、馬がガソリン車に変わっただけ、みたいな世界だ。しかも、なんというV8エンジン信仰! ガソリンを吹きかけて加速するシーンなんて、大笑いした。
 しかし、本作、マックスのポリスインターセプターは出てこない。代わりに出てくるのは、ウォートラック。巨大なトラック。V8エンジンにニトロ。なんというモンスターマシン! ソレを駆るのは女戦士フュリオサ。義手の女性! 更に、フュリオサの故郷のババアども! もうなんだコイツら! 最高に頭が悪い! とにかく暴力、ガソリン、暴力、ガソリンだ! あと母乳だ!
 これを言葉で語るのは難しい。ともかく、頭が悪いのだ。こんな最高に頭の悪い映画、久々に見た。パシフィック・リム、バトルシップなどに続く、最高にアホな最高の映画になるだろう。
 
 まるでジェットコースターのような映画。しかも、ずっと落ち続けるようなこの加速感。そこら中から火が噴き、頬を熱する。もう、最高だ。
 さあ、劇場へ急げ。一緒に頭悪くなろう!

2015年6月21日日曜日

デッドエンドと、第三世界。ゴーストの行き場は……。『攻殻機動隊 新劇場版』

 早速公開日の夜に見に行ったのだが、終わったのが零時で、その前にはバイトも入れていたので、書く気力がなく断念。というわけで、翌日と為る今日、レビューを書き始めた。
 攻殻機動隊といえば、士郎正宗原作のSF作品。いわゆるサイバーパンク的な世界観を部隊に、犯罪・テロを未然に防止する攻性の組織、公安9課の活躍を描いている。
 今回の新劇場版は、OVAそしてテレビシリーズと続くARISE、その続編である。より詳細に言うならば、原作や押井攻殻、神山攻殻の9課が結成されるまでの話だ。

 さて、一概に攻殻といえども、作品ごとにカラーがある。原作の少しコミカルなテイストに反し、押井は何とも押井らしい。GITSやイノセンスなど、映像美と、また彼らしい演出。あと眠くなるとか。神山版で言えば、シリアスな展開に現代社会の諸問題を組み込んだ点があげられるだろう。では、ARISE・新劇場版のカラーはなんだろうか。
 私が思うに、ARISEには脚本の冲方丁の感じが出ていたように思われるが、しかし新劇場版では随分押井・神山版に沿わせた感じがあったように思う。まあ、それら作品につながる物語であるのだから、仕方ないといえば仕方ないのだが。
 して、本作のファクターとなる物がなにか、といえば、それはデッドエンドだ。
 デッドエンド、とは、技術的な理由による義体交換の不可能。それによる死のことだ。たぶんそう(実はそこまで確信を持って言えない)。まあ、要するに古いコンピュータが互換性を失い、死に絶えていくのと同じなんじゃ? というふうに私は感じた。
 物語は終始、このデッドエンドの回避と、企業の利益獲得の為の犯罪行為に関わる。少佐達は、それらの犯罪の芽を摘むために動くわけである。

 しかし、このデッドエンドの先にあるものは何なのか。ARISEでも登場した少佐の元上司、クルツ中佐が関わってくる。
 ぶっちゃけて言えば彼女がすべての犯人なのだが。彼女の狙いは、企業が思うような技術レベルの維持によるデッドエンド回避などではない。彼女の目的は第三世界。すなわち、義体から抜け出て、意識をネットの海へ向かわせることだ。2ndGIGでも似たようなものは在った。それでゴーストは保たれるのか、という問いはあるが。
 少佐はそれらを止め、最終的にクルツを信奉し、第三世界へ向かおうとしていた子供たちに「お前たちには電脳がある。ゴーストがある」といって、出て行く。

 さて、そこで少佐は前髪を伸ばすのだが。この前で、GITS冒頭のシーンに繋がるのである。そしてまた、SACの桜の24時間監視シーンにも。
 そのところは是非見て頂きたいところだが。さて、私は本作が、随分となんか、周りくどい言い回しをする作品に思えた。いや、攻殻自体そういう作品なのだが。アクションシーンは面白く、話の内容も良かった。個人的には笑い男事件には敵わないが。

 まあ、ともあれ私が一言物申したいのは、真綾少佐は前髪垂れてるの似合わねえなあ……。

2015年6月16日火曜日

限られた時の中で輝く。『ラブライブ!The School Idol Movie』

 言わずと知れた(いろんな意味で)アイドルアニメ、ラブライブ。その劇場版が公開されたということで、見てきた。今回はそのレビュー。

 さて、ラブライブといえば、廃校の危機を救うために女学生達がアイドルグループを結成する物語。劇場盤では、スクールアイドルの大会「「ラブライブ」に優勝した後の、主人公たちμ'sの活動と、その解散までを描いている。

 で、まあ、物凄くざっくりと言ってしまえばこの映画、アニメとそれ以前の企画(要するにプロモーションビデオ)のイイトコどりをしたものだ。つまるところ、
アニメで受けた展開に、評価の高いプロモーションビデオを入れ、それらに合わせてストーリーらしきものをあてはめた。
という感じだ。

 ストーリーらしきもの、と敢えて刺のある言い方をしたのは、無論それが微妙であったからだ。序盤μ'sはよく分からんうちに撮影があるとか何とかでNYらしき場所に飛ぶ。で、そこで色々あるのだが……正直、『アニメだから』と言って目を瞑っても、何とも承服しがたいシーンが幾つか見受けられた。話の内容が何だか繋がってるんだか繋がってないんだか。あれ、あそこであった話ってどこに行っちゃったの? という感じ。アニメで受けたシーンの焼きましを、無理やりねじ込んだ結果がこれなのだろうか。まあ、終始海未ちゃん可愛かったし、風呂あがり真姫ちゃんエロかったし、寝ぼけたエリーチカ可愛かったからいんだけど。(ソルゲトリオが好きなだけ)
 
 しかし、μ'sがNYから日本に戻ってくると、展開は一変する。その無理矢理な話の作りは一挙に消え(いや、そこまででもないかな。でも、まだ見ていられる)、まあ相変わらず話の内容は穂乃果の無茶と皆の協力でなんとかなる、というものだが。しかし、ここでようやっとまともな話に変わる。
 最後に流れたμ'sメンバーの名前の込められた曲は良かったと思うし、相変わらずライブシーンはよく出来ている。イイトコどりをした結果、確かにファンは嬉しいものになっただろう。堅実な作りだ。だが、批判する気持ちも分からんでもない。特に、後半がμ's解散とスクールアイドル存続の間で揺れるという、比較的まともな話の作りだったため、ただファンサービスに走りすぎた前半NY編の必要性があまり感じられなかった。高山みなみ演じる謎の女性シンガー(これは未来の穂乃果だろうか)が出てくる以外、あまりストーリーラインに関係が無い気がするのだ……。

 ともかく、堅実な作りのファンサービスムービーだった。公式ママライブや、穂乃果パパのラブライブレードとかは正直笑えた。あと、真姫ちゃん巻き戻ってた。
 言うまでもなくラブライバー、またはラブライ部員諸兄は見に行っただろうと思う。見いていないのなら、まあ、好きなキャラが可愛いのを身に行くために劇場に行くといいだろう。

2015年5月30日土曜日

純粋な”意識”は次の場所へ向かうか?『チャッピー(Chappie)』

 SF映画としては、今年結構期待していた作品。第9地区や、エリジウムで知られるニール・ブロムカンプ監督の最新作。
 この作品、公開前にソニー・ピクチャーズが一部編集して公開するとか、監督が「そんなの聞いてねえよ」とか言って、一悶着あった。期待していた分、私も結構ショックだった。
 が、まあ編集部分はそこまで気にならなかった。むしろ気になる点は他に多くあったわけだが……。
 ともかく、昨今ファミリー、カップル向けに映画を無理やり宣伝している感じがあるので、おそらくチャッピーもそうなったんじゃないか、とか考えている。


 さて、本作のざっくりしたあらすじは、というと、意識を持ったAIチャッピーの成長物語である。
 舞台は南アフリカのヨハネスブルグ。(そういや第9地区もヨハネスブルグが舞台だった)治安維持の為に警察はAIを搭載した人型ロボットを投入。犯罪の発生率は低下していた……。そんな中、ドロイドの開発者であるディオンは、意識を持った完全な人工知能を開発。それをドロイドに搭載、実験を申し出る。だが、その実験は却下されてしまう。
 諦められないディオンは、破棄処分が確定されたドロイド(チャッピー)にAIのデータを転送しようとする。だが、そんな中、犯罪組織にディオンは誘拐されてしまう……。
 子供のようなAI、チャッピー。ヨハネスブルグの過酷な社会で成長する『少年(チャッピー)』の半生を描いた作品。

 と、言ったところだろうか。
 詳しくは本編を見て頂きたいところだが、しかし私は、この作品に「違和感」を感じてしまった。
 その違和感の正体というのは、『意識』というものの捉え方だ。
 愚かな、嘘つきの人間と、純粋なAI。その対比こそがこの作品の本質であり、まあ、それがテーマであろうことは簡単に理解出来る。実際、その点ではよく出来ていると感じる。リアルなドキュメンタリー調から始まる物語は、人間の本質に迫っているだろう。
 だが、そのようなリアルさを描いているがゆえに、AIが持つ意識という物に足を突っ込んだ途端、急に違和感が生じたわけである。
 物語中盤、チャッピーは自らが破棄処分の確定された個体で、バッテリーが限界に近づいていると知る。彼は死を回避するため、自身の『意識』をデータとして転送することを思いつく。そして、見事に意識という物を見つけ出すのだ。
 だが、考えてみて欲しい。チャッピーに意識を生じさせたのは、他でもないディオンだ。彼は、そのようなプログラムを作り、チャッピーにそれをインストールしたはずなのだ。しかしながら、彼は成長し、自我を持ったチャッピーを観て「こんなことになるとは思わなかったんだ」とか何とかのたまうのである。
 いや、待ってくれ。プログラムしたのお前だろ? なんでお前、意識なんてわけわからん物を、理解できぬままプログラムできたの?
 いや、わけのわからんまま放ったらかすのは、まあ訳の分からんまま生じてしまった、セレンディピティのようなものだと考えられる。だが、それは意識としてデータとして捉えられるものだと、後々に判明する。しかも、それをアンドロイドに転送することまで可能にしてしまう。
 SF的な設定。大いに結構。だが、序盤のリアル志向な始まり方のせいで、この曖昧な設定が浮いて見えてしまう。それが違和感の正体だろう。

 と、まあ。相変わらずメカニックは格好良かった。問題は、余計な所に手を伸ばしてしまったことのような気がする。
 あと、「テンション」って書かれたオレンジ色のズボンがすっごい気になった。あれ何処に売ってるんだ。

2015年4月10日金曜日

芸術家になれない者が批評家になる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 かつてヒーロー物の映画で一斉を風靡した、落ち目の俳優。リーガン・トムソン(マイケル・キートン)。そんな彼が今一度羽ばたく為、舞台俳優としてブロードウェイに立つ。

……というのが、本作のざっくりとしたあらすじ。先程、某◯ahoo!映画のレビューを見てきたが、まあ酷評されたり賞賛されたり。確かに見ていて、人を選ぶ映画だなぁ、とは感じた。
 もしコレが、元ヒーロー映画の主役が妄想したり云々して再び舞台に返り咲くサクセスストーリーなら、きっとそういう人も黙って首を縦に振っただろう。だが、これそういう映画じゃない。芸術家になろうとする主人公が、ずーっと苦悩し続ける映画だ。だから、きっと想像していた面白さとは違ったんだろう。


 
 それで、私がコレを見て思ったのは、
エンタメ映画批判に見せかけた、芸術()作品批判。
 というもの。
 劇中でマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が言うセリフの中に、「芸術家になれない者が批評家になる」みたいなセリフがあった。調べてみたところ、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言葉らしい。おそらくこの映画の言いたい事は、これなんじゃないのか、と私は思った。
 劇中では、エンタメ映画への露骨な批判をするシーンが登場する。ス◯イダーマンとか、アイ◯ンマンとか、ト◯ンスフォーマーみたいなのがチープな感じで踊っていたりする。これだけ見たら、まああからさまに娯楽映画を批判しているのだろうとは思う。だが、リーガンが役者として返り咲いた過程を見ると、どうにもそのようには思えないのだ。
 この映画は、シームレスに映像が流れ続ける。リーガンの妄想も、現実も、全て境界無く続く。だから視聴者は、妄想と現実の判断がかなり曖昧になってくる。むろん、それが現実(リアル)ではなく虚構(フィクション)であると仄めかす描写はある。だが、ほとんどそれは曖昧だ。彼が超能力を使うシーンがあるが、それが妄想だと根拠付けする描写はない。
 妄想の中で、彼の中の『過去の栄光』=『バードマン』は、彼に囁き続ける。「お前はバードマンだ」と。これは、おそらく芸術家紛いの役者崩れになろうとしているリーガンへの皮肉だと思われる。
 バードマンの囁きに、彼は反抗し続ける。だが、やがて彼はソレを受け入れ、自分が求めているのは血や暴力、爆発なのだと知る。
 それで、最終的にリーガンが如何にして役者として返り咲いたかと思えば、それは『スーパーリアリズム』とも言うべきものだった。すなわち、自殺シーンを実銃でやって、他の俳優や観客にも『本物の血』を浴びせるというものだ。そんな極度の現実性こそが芸術だ、として彼は再び役者として成功する。

 だが、待ってくれ。此処で言う『血』と、俗っぽいエンタメが見せる『爆発』とかって、なんか似たようなもんじゃないのか? スーパーリアリズムなんて言葉で取り繕ってはいるが、要はその場で起きた流血沙汰に興奮しているだけではないか。それでは、結局双方の本質は変わらないじゃ?
 映画は、最後にリーガンが入院するシーンで終わる。彼が放った銃弾は、自らの鼻を吹き飛ばした。奇跡的に一命は取り留めたものの、鼻は新しい物に付け替えることに。この時彼がしている包帯が、何ともバードマンのマスクのよう。
 そうしてラストシーンで、彼は妄想に浸りながら、病室の窓から飛び出す。それを見つけた娘のサム(エマ・ストーン)が、最後に空を見てニッコリと笑う。それで、この映画は終りだ。
 さて、この笑顔の意味は何だったろう。空を見ていた、ということは、やはりリーガンには妄想では無く本当に超能力があった、ということだろうか。だとすれば、それを見てニッコリとした娘の姿は、さながらスーパーヒーローものという実に俗っぽい映画をみて楽しんでいる観客のようにも思える。

 で、この映画のタイトル『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とは何だったのだろうか。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、リーガンが誤って実銃を使った→それによるスーパーリアリズムの確立。という奇跡を表すタイムズ紙の見出しだ。つまり、このカッコの中の文句は、結局リーガンが流血沙汰で客を興奮させることを言っているんじゃないだろうか。で、バードマンというのは、同じく俗っぽいエンタメ映画のこと。
 リーガンに残された、役者として再び返り咲く方法。それこそが、”バードマン”あるいは”無知がもたらす予期せぬ奇跡”だったのでは。
 と、ちょっと考察してみたが、よくわからん。
 まあ、人を選ぶ映画だなぁとは思いました。

2015年2月23日月曜日

番犬であり続けようとした男。『アメリカンスナイパー(American Sniper)』

 予告編からもう痺れて、絶対に見に行こうと思っていた本作。各所で物議を醸しているようだが、取り敢えず私なりの感想を書き出してみようと思う。ネタバレ有りです。


 さて、本作は、イラク戦争で160人以上を殺し、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵からは「悪魔」と恐れられた狙撃手、クリス・カイルの物語。戦地では「伝説(Legend)」と呼ばれた彼が、日常生活と戦場との間で苦悩するヒューマンドラマ。
 と、こういうネタはベトナム戦争の頃から随分とやり尽くされてる。有名ドコロだとランボー。私の好きな作品だと、リーサル・ウェポンのリッグスもベトナム帰還兵で、自殺志願者だった。リッグスの場合、相棒マータフとその家族との触れ合いによって、徐々に心を取り戻していく。同じイラク戦争だと、ハート・ロッカーなどもあげられるだろう。ハート・ロッカーの場合、結局日常に馴染めなかった主人公が再び戦地に戻るという皮肉な終り方であったが。
 さて、いずれにしてもこういうネタは結構ある。そして、そのたびにアメリカ万歳な雰囲気があるだのなんだのと言われる。だが、私が思うにクリス・カイル(あくまでも劇中の彼。自叙伝は読んでいない)は、『戦場に取り憑かれた男』というよりは、『番犬であろうとした男』というように思われる。詳しくは後述する。
 こういう話でよくあるのは、結局彼の居場所は戦いの中にしか無い、というもの。実質カイルは、四度イラクへ派兵された。作中でも、祖国アメリカへ戻るたびに『戦場の感覚』というものが抜けず、苦悩する場面が多かった。だが、最終的にカイルは、退役軍人をケアするという形で、徐々に心を取り戻していく。その後、彼は助けようとした元軍人に殺されてこの世を去るのだが。
 私が思ったのは、彼は戦場が好きで戦争に行ったのではないのでは、ということだ。ハート・ロッカーの場合は、戦場にしか居場所がないという終り方で閉められたが、だが本作は違う。それには、冒頭部でカイルの父が言った言葉がキーワードになってくると思われる。それこそが以下の三つ、羊、狼、番犬だ。(英語だとSheapdog:牧羊犬と言っていたような気もするが、定かではない)
 「羊」というのは、御存知の通り憐れな子羊ということ。「狼」という悪に危害を加えられても抵抗できない憐れな存在だ。だが、そんな羊を狼から守る、類まれなる存在がいる。それこそが「番犬」だ。冒頭部、虐められていたカイルの弟を「羊」として、いじめっ子が「狼」。そして、いじめっ子を殴り倒したカイルが「番犬」として喩えられた。そしてカイルの父は、子供たちを「番犬」に育て上げるつもりでいたわけだ。
 彼は、戦場に取り憑かれていたわけでもない。戦場にしか居場所が無かったわけでもない。ただ、父がかくあるべきと示した人間であり続けようとしたのではないだろうか。祖国国民と、愛する家族という「羊」を守る「番犬」であろうとし続けたのではないだろうか。現に作中何度か、カイルは家族を守るために戦場に行くのだ、と口にしていた。
 故に私が思ったのは、これはアメリカ万歳な戦争映画でも、PTSDに陥った男の苦悩を描いたのでもない。純粋に「番犬」であろうとした、不器用な男の半生ではないだろうか、ということ。だからこそ彼は、戦場で仲間を救うことではなく、戦場より帰還し苦悩している仲間を救うことに意義を見いだせたのではなかろうか。
 そして本作は、実際の映像によるカイルの葬儀が流れたのち、無音のエンドロールが流れる。さて、このエンドロールは何を示していたのだろうか。ゆっくりと作品の意義を考える時間だろうか(その割に途中で劇場出てくやつめちゃめちゃいたぞ)。それとも、カイルの死を示す静寂であったのだろうか。
 戦争映画、というよりもヒューマンドラマ。個人的には見ていて楽しかった。コテコテの戦争映画より、こういう男の話が好きだ。

2015年1月19日月曜日

最も恐ろしいのは、社会に隷属する人間か。『劇場版PSYCHO-PASS サイコパス』

 昨日、サイコパスだけは見る気が起きないと言った私。まあ、二期があまりにも微妙だったので、期待できなかったからなのだが。その上、なにやらサイバーパンク好きなオッサンどもをターゲットに当ててたのに、劇場には腐女子ばっかだと聞いたので(現に私がパトレイバーを初日に見にいった時はそんな感じだった)、じゃあ批判するためにも見に行ってやろう。と、勢い任せに見てきた。
 で、見てきたのだが……。



 すまん、ふつうにおもしろかった。

 というか、昨日見たアップルシードより良かったかもしれない。映像の質はさておくが。


 ところで、私がサイコパス二期が楽しめなかった最大の理由は、求めていたものと違うものを突きつけられたからだ。聡明な視聴者諸兄もそうであったはずだ。一期を視聴し、二期が始まると聞いて何を期待した? 咬噛とギノさんのホモホモしい展開? 違う。六合塚と唐之杜のレズセックス? 気持ちは分かるが、違う。
 二期に何を求めていたかと言えば、それは後日談だ。咬噛が消え、常守が先輩になった公安のアフターストーリーのはずだ。それがなんだかよくわからん、ストーカーのマザコンひろしの話にすげ変わっている。そりゃ、楽しめなくて当然だった気がする。
 劇場版は、そういう意味で私の見たかった三点と、もう一つ興味深い点を押さえてくれている。その三つというのが、まず前述の後日談。そして、ビバップばりの格闘アクション。劇場版では、そこにサイボーグ要素まで加わって、これでもかというアクションを見せてくれた。三つ目が、SF特有のガジェットの見せ場だ。

 では、もう一つの興味深い点とは何か。それは、昨今の国内SFで流行の、いわゆる管理社会、管理都市ものの疑問点に立ち向かっていることだ。その疑問点が何かというと、
発展途上国で管理社会は成立するか、
 というものだ。
 管理社会というのを、私は現代の民主主義政府社会の先にあるものだと考えている。いや、元を正せばそのようなディストピア小説は、社会主義の現実批判に端を発する訳だが、しかし社会主義も資本主義社会へのカウンター的なところがあるから、まあよしとしよう。
 話が逸れたが、問題の「疑問点」というのは、発展途上国すなわち紛争当事国で管理社会は成立するかということだ。人間がシステムに飼い慣らされる社会というのは、その前段階が必要なはずだ。つまり、民衆が政府の下に位置する社会。その政府が、民衆をシステムによって管理するかどうかが、管理社会であるかどうかというところだろう。だが、そんな民主主義も政府社会もへったくれもない紛争国では、そのようなシステムが運営可能であろうか?
 私はこの疑問点について、伊藤計劃のハーモニーについて考える際、ぶち当たった。というのも、私が以前考えたハーモニーのアフターストーリー、『〈harmony After/〉』にて、「意識消失は、紛争当事国でも完全に発生しうるのか」という疑問の中で浮上した。世界各国の発展途上国すべてが、日本のようにWatchMeを導入している訳ではない。ならば、どこかで意識が存在する人間が現れるはず。という、疑問だ。
 劇場版サイコパスでは、アジアの紛争国にシビュラシステムを輸出するという形で、この疑問への解を導き出している。すなわち、システムが開発独裁を意図的に発生させることで、国家を管理社会が実現可能なレベルにまで発展させるということだ。そうして、社会が一定レベルまで成長したところで、システムは独裁に関わった者を一掃する。
 で、そんなことを平然とやってのけるシステムの手駒として、霜月のような存在が出てくる。空気を読め、という一言でシステムが発展途上の社会を取り込んでいく様子を容認している。一方で、やはりそれらに懐疑的なのが、咬噛や常守だ。咬噛は、第二の槙島になるかと言われたが、しかしそうはならなかった。なりかけていたが。
 物語は、シビュラが導入された件の紛争当事国で、シビュラにあらがう咬噛。そして、彼を追う常守という形で進んでいく。やがて咬噛を見つけた常守は、成り行きで咬噛の味方につく。そこでシビュラに従いながらも、圧倒的な武力を行使する政府軍が描かれる。
 とまあ、そんな「反政府弾圧怖い」という演出があるわけだが、しかし最後にそれらをも容易くぶっ殺していく日本警察こそが、一番恐ろしい。その対比というか、演出は、是非見てもらいたいところだ。


 というわけで、遅ればせながらサイコパスを見てきた。個人的に、アクションもりもりのSFガジェットもりだくさんで嬉しかった。ここまでおもしろいと、逆に二期って何だったんだと思えてくる。
 きっと私と同じく、二期がつまらなかったから、敬遠しているSF好きがいるはず。少なくとも、二期よりは格段におもしろいかったと私は感じた。






 とはいえ一つ文句だけを言わせてもらうとしたら、あんまり日本の声優さんに英語で演技させないほうがいいんじゃないかなぁ……というところだ。

2015年1月18日日曜日

サイボーグ萌え&巨大兵器萌え『アップルシード アルファ』

 今年はSFアニメが目白押し。アップルシードに始まり、伊藤計劃作品三つに、攻殻機動隊……(サイコパスはあんまり見る気がおきない)。そんなわけで一発目、アップルシードαを見てきた。
 本作は、アップルシード、エクスマキナなどの前日譚。ブリアレオスとデュナンがオリュンポスでESWAT隊員になる前の物語。つまり、他の作品を見てなくても安心、ということ。SFアニメの取っ掛かりとして、アクション満載の本作を見てみるのもいいかもしれない。
 本作の何よりものウリは、美麗なCGだろう。エクスマキナの時と比べて、かなりよくなっている。ざっくり言ってしまうとFFみたいなCGになっているわけだが。それにしても、日本もCGイケるじゃないか! と思えてしまう出来。
 で、そのような美麗なCGで描かれるのは、世界大戦によって荒廃した未来。そして、そこに生きるサイボーグたち。諏訪部レオス(勝手に命名)始め、玄田哲章ボイスで喋る憎めない悪役的な感じのサイボーグ。また、名塚佳織ボイスで喋る黒くてつやつやで、ケツのエロいサイボーグとか。
 しかしどちらかといえば、これらのメカニック、アメコミ映画で出てきそうな感じのデザインだ。まあ、アームズフォートみたいな巨大兵器が出てきて、それの排熱シーンがカッコ良かったからいいのだが。


総評
 一言で言ってしまえば、そこそこ。綺麗な映像でそれなりのSFアクションをやってみた程度の出来だと言える。可もなく、不可もなく。いや、カッコイイのだけれど。物語はありきたりなものと言える。アクションはカッコイイが、しかしエクスマキナの時のようなカッコよさはない(それはお前がジョン・ウー映画好きなだけだろ)
 面白かったが、あと一歩な感じ。それなりに良い出来だったからこそ、もう一声と言いたくなる。そういえば、4DX上映もあるから、そのことを考えているのやもしれない。






 ……あ、でも玄田哲章さんが凄い良い味出してた。

2015年1月10日土曜日

猫パンチは目玉を抉る。『シン・シティ 復讐の女神(Sin City: A Dame to Kill For)』

 本日、TNGパトレイバーと一緒に見てまいりました。
 実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
 一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。


 こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
 まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
 そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
 で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
 正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
 三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
 そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。 
 とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。

 ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。

2014年11月23日日曜日

事象の地平線の先にあるモノは? 『インターステラー(Interstellar)』

 ダークナイト、インセプションなどで知られる映画監督、クリストファー・ノーラン。彼の最新作である『インターステラ―』を見てきたので、そのレビュー。ネタバレ注意です。

 さて、本作は前々から目をつけていた訳ですが、ざっくばらんにそのストーリーを言うと、要するに「ハリウッド版宇宙戦艦ヤマト」という感じ。作物が育たなくなり、食料危機に陥った未来。このままでは人類は餓死。それどころか、大気中の酸素がなくなり人類は窒息死してしまう。それを回避するため、居住可能な惑星を探しにいく……というもの。
 宇宙飛行士を主人公とした映画というと、だいたい『2001年宇宙の旅』、そして最近では『ゼロ・グラビティ』が引き合いに出されます。しかし、本作のキモは、それら二作品とは明らかに違います。比べるポイントが、明らかに違うように思えます。
 というわけで、私が思ったこの作品のキーポイントはこの二つ。

人間の欲望、野心から生まれる嘘。

事象の地平線を超えるモノ。あるいは、超えた先にあるモノ。

 この二つです。
 まずは、前者ですが。正直このへんは「なかだるみ」と私が感じた箇所でもあります。
 順を追って説明すると、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)は元NASA所属のパイロット。しかし今では一線を退き、農夫として息子と娘、父と共に暮らしていました。息子は農家を継ぐ予定で、一方娘のマーフィー(ジェシカ・チャステイン)は、宇宙に興味を抱く少女。そんな彼女の部屋で、ある日異変が起きる。ポルターガイスト現象や、重力の異常など。そしてそれらは誰かからのメッセージだと判明する。
 メッセージに従い、クーパーとマーフィーはある座標へ。そこにあったのは極秘裏に活動していたNASAだった。
 NASAは、人類の危機に対し、二つのプランを計画していた。プランAは、コロニーを建造して移民するというもの。しかし、その為には重力制御装置の開発が必須。重力に関する方程式を解く必要があった。一方のプランBは、突如発生したワームホールの先にある別銀河に人間の受精卵をまき散らすというもの。クーパーは、プランBの為にワームホール探査に行った先遣隊を救出。並びに居住可能な惑星の調査のため、宇宙船のパイロットに選ばれる。
 ……という感じなのですが。これらの大半は嘘です。
 何が嘘かというと、居住可能な惑星を見つけたという先遣隊のマン博士。そして、方程式を解くと言ったブランド教授。二人は欲望の為に嘘をついたのです。マン博士は、救援を求めて嘘の情報を地球に送り、更に手柄を自分の物にするためクーパーたちを騙します。そのくせ「俺は人類の為に戦ってるんだ!」みたいなことを言っちゃう矛盾っぷり。
 そしてもう一人、ブランド教授はというと、コロニー建造の為の方程式はとっくに解けていた。というよりも、解けないということが分かっていた。というのも、解くためには「事象の地平線(イベント・ホライゾン)」を観測する必要がある。ブラックホールを探査する必要があった為です。しかし、プランAの嘘をついたのは、「地球にいる人々を見捨てる」ということを言ってしまえば、クーパー達は宇宙へ行かなかっただろう、という理由から。
 つまり、どこまでも人の欲望や、存在することへの固執のようなものを描いています。物語の中盤はずっとこれ。
「あれは嘘だ
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
 みたいなやりとりが連続します。


 で、超えると一番のキモ。事象の地平線を超えた先が出てきます。
 ブラックホールで重力ターンをした後、他の惑星を目指すのですが、その際にクーパーはブラックホールに飲み込まれます。そして、事象の地平線へと向かうわけです。
 事象の地平線と言えば、シュタインズ・ゲートでも出てきたアレです。光の速さを超え、過去へメールを送ってしまうアレ。そのイベント・ホライゾンを超えると、時間と空間が逆転します(これはよくある誤解らしいですが、クソ文系の私には詳細がわかりません)。つまり、時間を超越した存在になるということです。ただし、空間は移動できない。
 クーパーは、そうして『あらゆる時間におけるマーフィーの部屋』に存在することになります。
 そうです。マーフィーの部屋で起きていた奇怪な現象は、事象の地平線を超えた先で、クーパーが時空を超えてメッセージを送ろうとしていたのです。この、始めの部分がラストに繋がる演出は、かなり良く出来ていたと思います。そのために、中盤の人間関係がだるーく感じられてしまう。特に三時間を超える大長編なのでなおさら。


 で、冒頭で何故私が『2001年宇宙の旅』や、『ゼロ・グラビティ』と比較してはならないというのは、宇宙空間の描き方ではなく、この『インターステラ―』の一番のキモは「ブラックホールの描き方」にあると思うからです。
 まあ、序盤でヤマトや、時間の流れ関連でトップをねらえ!を思い出してしまう私でしたが。
 ともかく、本作の核を成すのは何よりもブラックホール。次元を超えるモノ。これでしょう。
 
 人間関係、愛というものの描き方では、インセプションの方が秀逸であったと思います。しかし、ブラックホールという物を主題に置き、ここまでの物語を完成させた事は、本当に見事。ノーランには、この調子で素晴らしいSF映画を撮って欲しいと、心底思う作品でした。

2014年9月7日日曜日

「AKIRA/アキラ」 第三回『LUCY/ルーシー』

 リュック・ベッソンが送る。スカーレット・ヨハンソン、モーガン・フリーマン、あとよくわかんないマフィアだの警察だの、千原ジュニア似の中国人といったキャストによる、よくわかんない阿呆設定映画。

 と、予告を見た方はわかると思いますが(一応下にご用意)、脳の機能をフルに使えるようになった女性「ルーシー」の活躍を描く作品。

 なのですが、なんというか、能力を得る過程がですねぇ……はい。
 というわけで、ざっくり説明。


 舞台は、拳銃持って病院に押し入っても何も言われないのに、死にかけの末期がん患者を殺したら咎められる国、中国。あとフランスとか。
 主人公のルーシーは、中国語も話せないのに中国に住んでるよくわからない女性。どうやら頭が足りてない。そんな彼女はある日、一週間前に知り合ったばかりの男に運び屋の仕事を頼まれる。いやいや引き受けたら、あれよあれよという間に今度は中国マフィアの運び屋に。どうにも彼らはルーシーの腹部に新種の麻薬を入れたらしい。で、ルーシー他、腹部に薬の袋を入れられた者達は、各々の母国に戻ることになった。……なったんだが、ルーシーだけは何故だか中国人にレイプされかけて、そのせいで腹の中で麻薬が溢れてハイになっちゃった!
 そしたら、なぜなぜどうして? 脳の機能が20%以上使えるように! 一瞬で中国語も理解するし、脳の機能に関する論文を数分で読破。教授(モーガン・フリーマン)に直接電話したり、電波操って謎ハッキングを始める始末。あのルーシーちゃんが、この世の全てを理解できるように!
 そんなルーシーは、最終的に脳の機能を100%使えるようになりました。でも、その体は長く持ちません。よって、大学のコンピュータを元に新しくスパコンを作って、USBメモリに全ての知識をぶち込みましたとさ。やったね! これで人類は、進化へとまた進みました!

いや、次世代コンピュータとはいえ、脳データ全部が外部記憶装置に入るのかよ!?


なんというか、まるで攻○機動隊とかア○ラのようですが、そのへんの説明は一切無いので、よくわかんない。
 私が思うに、こういう阿呆みたいな設定の作品というのは、二つに分けられます。一つは、

阿呆な設定へのツッコミを黙らせるほどの格好良さ、熱い物語、演出などなどを持った『素晴らしく阿呆』な作品。

 で、二つ目が

阿呆な設定をそのまんま見せ続けて、視聴者を(ある意味で)黙らせる作品。

 の両極端だと思ってます。
 前者は、私が思うところでは『男たちの挽歌シリーズ』とか、『パシフィック・リム』とか。設定無茶苦茶だけど、カッコイイからどうでもいいよな! って言える作品。
 『LUCY/ルーシー』は、少なくとも前者にはなれなかった気がします。アクションが派手なわけでもなく、斬新なわけでもなく。ちょいと指振ったら敵がすっ飛んだりなんなりする程度。カーアクションシーンも、TAXIやトランスポーターほどの派手さはありません。
 期待してたのと違う、という意見があるのは、確かに言えてますね。可もなく不可もなく。

2014年8月9日土曜日

「筋肉式交渉術(機械版)」 第二回『トランスフォーマー/ロストエイジ』

 公開初日の今日、地元の映画館で見てまいりました。というわけで、一応ネタバレ注意です。
 で、まず最初に言っておきますが、

サムは出ません。レノックスさんも出ません。

 ということで、お馴染みのシャイア・ラブーフ語と寒いギャグは聞けません。
※参考

 で、代わりに登場するのは、某狂気のマッドサイエンティストを拗らせたようなガラクタ発明家の父親(マーク・ウォールバーグ)と、エロい娘(ニコラ・ペルツ)。
 さて、察しの良い方は予想出来てますね。はい、親父が娘を守る話です。はい、いつもの展開ですね。
 とはいえ、メインはトランスフォーマーです。ロボットです。彼らの話はプラスアルファと言った感じ。頭空っぽでほげ~っと楽しめるロボバトルに人間というおまけが付属してる感じですね。


 で、まあざっくりあらすじを言っちゃいますと、

 舞台は五年後。オートボットを信用できなくなった人類は、ディセプティコンの破片やら、生け捕りにしたオートボットやら、地下に眠ってた金属製の恐竜からガンダニュウム合金トランスフォーミウムなる金属を発見。そいつを使って人工トランスフォーマーを創りだそうとしていた。
 かたや追い詰められていたオートボット。おんぼろになったオプティマスプライムは、例の親父に助けられる。が、そこにCemetery Windとかいうダッサイ名前の部隊と宇宙賞金稼ぎのトランスフォーマー(ランボルギーニ)が!
 逃げていく中、人間側が創りだしたトランスフォーマーがメガトロンの意志に乗っ取られる!
 しかも、どうやら連中はシードなる生物を強制的に金属生命体化させる爆弾(恐竜はそれで絶滅したっぽい)を手に入れ、ソイツでトランスフォーミウムを量産するつもりでいた! その上メガトロンはそれを奪って人類滅亡を企んでいるらしい。
 わーお、人間側のトランスフォーマーが全部メガトロンに奪われちまったぜ! あとはオートボットを頼るしかないやん!
オートボット「そんなこと言われても、お前らのせいで戦力ないし……」
オプティマス「私にいい考えがある」
 なんかよく分からんが、宇宙船から金属恐竜が出てくるぞ。
 よくわからんけど、取り敢えず敵ぶっ飛ばして、平和は訪れた。メガトロンまだ生きてるけど。

 とまあ、適当ながらこんな感じ。
 あれですね、相変わらず何が起きてるかよくわからんけど、取り敢えず爆発してんだなって感じ。


 で、です。今回のトランスフォーマー、4にあたるのですが、シリーズ通して思うに、こいつは3以上1,2以下かなという感じ。3は後半完全にただのSFパニックものでしたが、今回はまだロボットバトルしてくれましたね。特にハウンドです。ハウンド!
 こいつ、今回オプティマスやビーより活躍してんだろってキャラです。深緑の軍用トラックなんですが、変形すると咥えタバコにドッグタグにヒゲ、そして大量の銃火器という凄い渋いヤツ。しかも、コイツがまたいい味出してるんですね。
 味方のオートボット(クロスヘアーズ)が
「人間助けて俺に何の得があるんだ?」みたいなことを言った時、すかさずハウンドが銃を突きつけ、
「俺に殺されないだけでも得だろう?」
 なんという筋肉式交渉術!
 こんな展開を見れるとは思ってませんでした。しかも、その後のメガトロンに支配された人間側のトランスフォーマーとの戦いで、またコイツがいい味出すんですよ。脇役が輝いているのは、いいですね。
 一方、オプティマスさんは「顔を剥いでやる!」どころか、「殺してやる(I'll kill you!)」とか言っちゃう始末でしたが。


 本作は賛否両論あるらしく、飲み物を飲むシーンは特に色々言われているらしいですね。戦闘シーンの直後にグビッと一杯。あとは、屋上で牛乳をごくごく。
 中国から金もらってるから云々みたいな意見も散見しますが、いや、言うほどでも無いだろって感じ。むしろ私としては、レノックスさんどこ行ったんだよと小一時間マイケル・ベイを問い質したいところ。なんだよ、墓場の風って。
 とはいうものの、車を撮らせたらマイケル・ベイの右に出るものはいない、というのはまだ言えてるような気もします。カーチェイスシーンは結構良かったですね。
 

というわけで、『トランスフォーマー ロストエイジ』、男臭いオートボットが見たいなら、ぜひ劇場へ。

2014年8月6日水曜日

第一回 ホワイトハウス・ダウン

 機乃遥による映画レビューブログ、なんてものを前々からやりたいと思っていた。自分の趣味趣向を言葉にしていくというのは案外むずかしい物で、小説家になろうの活動報告でたまーにやっていたのだが、それも何だかうまくいかないもので。
 やってみたい、という大きな思いは、おそらく私の好きな作家、伊藤計劃が映画のレビューブログをやっていたこともあげられるだろう。で、なんで急にこんなことやり始めてんだ、というと、夏休みが暇だってこと。(その割に原稿がめちゃくちゃ溜まってるんですがね)あと、創作の方が行き詰まっているってこともありますね。
 そこで、とりあえず自分の考えも言葉に書き表して見よう、というなんとも突発的な企画。


 して、このブログでお初にお目にかかる方もいるかもしれんということで、軽く自己紹介を。
 機乃遥、17歳と20ヶ月(2014年8月現在)。SF作家志望のクソ大学生です。小説家になろうの方でちまちま小説をうpしてますが、最近行き詰まってる感じがありまして。よろしければそちらの方も。
小説家になろうのマイページ


 てなわけで、ツイッターではトランスフォーマー見てからにしようとか言ってたんですが、突発的に始めちゃいます。
 第一回は、ホワイトハウス・ダウン。これ、DVDでレンタルして見てきたやつですねw
 初めに言っておきますと、私はいわゆるアクション映画が大好きです。もう、アホみたいなアクション映画が大好きです。馬鹿じゃねえのって思うようなアクション映画が大ッ好きです。そんな私のツボに入った一作。
 前述どおり、私はアホみたいなアクション映画が大好き。で、こちらの映画もまさにその部類。監督のローランド・エメリッヒは、インデペンデンス・デイとか、デイ・アフター・トゥモローで有名ですね。え? マグロを食べるゴジラ? 何のことですか?
 さて、率直にいってこの映画、ダイ・ハードです。ダイハード・ラストデイを借りるぐらいなら、こちらをおすすめします。

 ざっくりあらすじを説明しますと、もうこれアクション映画の王道なんですが、

たまたまテロリスト襲撃の現場に居合わせた主人公が、たまたま一緒にいた娘をさらわれ、娘を救出にいく(ついでに大統領も)

 という実に素晴らしいストーリー。セガール映画とか見てると、もう見飽きたパターンですね。
 しかし、この王道こそがいいんですね。密室で敵と戦うのなんて、まさしくダイ・ハードを彷彿とさせます。
 そんなアクション映画の王道をやってくれているのが、非常に嬉しい作品。

 次に、なんで私がこの映画を推しているのか。それは、

ホワイトハウスっぽい要素ちゃんと出してるじゃん

 ということ。いや、ホワイトハウスで戦ってんだから当たり前だろって思うかもしれませんが、大統領専用車を使ってのホワイトハウス内でのカーチェイスとか、他にどの映画で見れるんだよ! と言いたくなる。防弾ガラスで機関銃に撃たれてもヘッチャラな車が、ホワイトハウス内をぐーるぐーる。すっごいアホですけど、すっごい楽しそうじゃないですか! しかも要所要所でジョークをいれてくるのが憎いですね。ただ爆発やアクションだけでなく、普通に笑える映画としても面白いです。

 そして、大統領と主人公のコンビがまたいいんですね。いわゆるウィットの効いた会話というやつ。いちいちジョークを挟むのがいいんですね。
 こういうコンビものってのは、二人の会話が面白いことが重要なんですね。リーサルウェポン然り、バッドボーイズ然り。
 そんなアクション映画の美味しい所をうまく押さえた作品だと思います。


 さて、突発的にやったためか、微妙なレビューだなおい。
 というわけで、次回はトランスフォーマー ロストエイジ&オール・ユー・ニード・イズ・キルの予定です。適当に付き合ってくれれば嬉しい限り。