2015年2月23日月曜日

番犬であり続けようとした男。『アメリカンスナイパー(American Sniper)』

 予告編からもう痺れて、絶対に見に行こうと思っていた本作。各所で物議を醸しているようだが、取り敢えず私なりの感想を書き出してみようと思う。ネタバレ有りです。


 さて、本作は、イラク戦争で160人以上を殺し、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵からは「悪魔」と恐れられた狙撃手、クリス・カイルの物語。戦地では「伝説(Legend)」と呼ばれた彼が、日常生活と戦場との間で苦悩するヒューマンドラマ。
 と、こういうネタはベトナム戦争の頃から随分とやり尽くされてる。有名ドコロだとランボー。私の好きな作品だと、リーサル・ウェポンのリッグスもベトナム帰還兵で、自殺志願者だった。リッグスの場合、相棒マータフとその家族との触れ合いによって、徐々に心を取り戻していく。同じイラク戦争だと、ハート・ロッカーなどもあげられるだろう。ハート・ロッカーの場合、結局日常に馴染めなかった主人公が再び戦地に戻るという皮肉な終り方であったが。
 さて、いずれにしてもこういうネタは結構ある。そして、そのたびにアメリカ万歳な雰囲気があるだのなんだのと言われる。だが、私が思うにクリス・カイル(あくまでも劇中の彼。自叙伝は読んでいない)は、『戦場に取り憑かれた男』というよりは、『番犬であろうとした男』というように思われる。詳しくは後述する。
 こういう話でよくあるのは、結局彼の居場所は戦いの中にしか無い、というもの。実質カイルは、四度イラクへ派兵された。作中でも、祖国アメリカへ戻るたびに『戦場の感覚』というものが抜けず、苦悩する場面が多かった。だが、最終的にカイルは、退役軍人をケアするという形で、徐々に心を取り戻していく。その後、彼は助けようとした元軍人に殺されてこの世を去るのだが。
 私が思ったのは、彼は戦場が好きで戦争に行ったのではないのでは、ということだ。ハート・ロッカーの場合は、戦場にしか居場所がないという終り方で閉められたが、だが本作は違う。それには、冒頭部でカイルの父が言った言葉がキーワードになってくると思われる。それこそが以下の三つ、羊、狼、番犬だ。(英語だとSheapdog:牧羊犬と言っていたような気もするが、定かではない)
 「羊」というのは、御存知の通り憐れな子羊ということ。「狼」という悪に危害を加えられても抵抗できない憐れな存在だ。だが、そんな羊を狼から守る、類まれなる存在がいる。それこそが「番犬」だ。冒頭部、虐められていたカイルの弟を「羊」として、いじめっ子が「狼」。そして、いじめっ子を殴り倒したカイルが「番犬」として喩えられた。そしてカイルの父は、子供たちを「番犬」に育て上げるつもりでいたわけだ。
 彼は、戦場に取り憑かれていたわけでもない。戦場にしか居場所が無かったわけでもない。ただ、父がかくあるべきと示した人間であり続けようとしたのではないだろうか。祖国国民と、愛する家族という「羊」を守る「番犬」であろうとし続けたのではないだろうか。現に作中何度か、カイルは家族を守るために戦場に行くのだ、と口にしていた。
 故に私が思ったのは、これはアメリカ万歳な戦争映画でも、PTSDに陥った男の苦悩を描いたのでもない。純粋に「番犬」であろうとした、不器用な男の半生ではないだろうか、ということ。だからこそ彼は、戦場で仲間を救うことではなく、戦場より帰還し苦悩している仲間を救うことに意義を見いだせたのではなかろうか。
 そして本作は、実際の映像によるカイルの葬儀が流れたのち、無音のエンドロールが流れる。さて、このエンドロールは何を示していたのだろうか。ゆっくりと作品の意義を考える時間だろうか(その割に途中で劇場出てくやつめちゃめちゃいたぞ)。それとも、カイルの死を示す静寂であったのだろうか。
 戦争映画、というよりもヒューマンドラマ。個人的には見ていて楽しかった。コテコテの戦争映画より、こういう男の話が好きだ。