2015年11月30日月曜日

クレイグボンド史上、最もボンドらしいボンド。『007 スペクター(Spectre)』

 さて、先日先行上映に行ってきたのですが、完全に放置気味なこのブログに書こうか書くまいかと小一時間考え、結局書くことにしました。

 007シリーズ最新作にして、クレイグボンド最終作と噂されるスペクター。当のダニエル・クレイグは、次回作までは続けるとかなんとか言ってますが、正直言うとクレイグボンドのストーリー(カジノ・ロワイヤル、慰めの報酬、スカイフォール、スペクターの一連の流れ)は、一応の決着を見たような気がします。これで続投というのは、ちょっとどうかな……という感じ。
 しかし、当初は「ボンドの癖にAT限定かよ!」とか「お硬すぎてボンドじゃねえ!」とか何とか言われてましたが、しかしスペクターでは大分馴染んだように思えました。
 そもそもボンドらしさとはなんぞや? 007シリーズ全てを見たわけでない私がこういうのは僭越ですが、しかしボンドのオリジナリティというのは、結局のところショーン・コネリーにあると思われます。で、ショーン・コネリーのボンドっぽさといえば、『ユーモアと気品の中にある冷たさ』では無いでしょうか。女たらしでジョークを織り交ぜ、優雅に振る舞うボンド。しかし、そのユーモアと気品の裏には、冷然と殺しを行う冷たさが有ります。そのエレガントかつクールな印象が、ボンドらしさの一つではないでしょうか。
 では、クレイグボンドはどうでしょう? 彼の場合、すごく硬い演技が何度も示唆されて来ました。決して演技が下手くそなんじゃなくて、役人みたいな印象(そりゃMI6なんだから役人だろ)があるんですよね。常に眉間にしわを寄せて、むすっとして。たしかに、それで殺し屋的な冷たさはあるですが、しかし冷たさを隠すユーモアと優雅さがない。クレイグボンドにある違和感は、それでしょう。
 しかしスペクターでは、それも幾分解決したように思われます。スカイフォールでは、その映像美によってボンドの優雅さを演出することに成功した、と思います。一方でスペクターでは、どちらかと言えばユーモアに重きを置いた感じがあります。スカイフォールがファン向けで、少し芸術っぽさを演出したのなら。スペクターは往年のファンの為のオマージュをしつつ、ユーモラスな娯楽映画としての立ち位置に戻ってきた、といっていいでしょう。現に笑わせるシーンが幾度もありましたし、爆破シーンなんて圧巻。銃撃戦も格闘戦もカーチェイスも盛り沢山。ガジェットもたくさん登場し、更に過去作を思わせるシーンがいくつもありました。娯楽映画としてのあるべき姿に立ち返った気もします。
 しかし、それゆえに敵の描写があまりに陳腐。ありきたりな敵であったようにも考えられます。まあ、スパイ映画なんていくらでもありますし。そもそも007自体もう24作目です。ネタ切れは仕方がない。
 キングスマンやコードネームU.N.C.L.E(実はまだ見てない。明日見ます)など、今年は007に続け! というようなスパイ映画が目白押しでした。そんななかで、その総本山たる007は、娯楽映画かくあるべし! という姿に立ち返り、オールドフューチャーな作品を作り上げてくれました。古典的かつ確立したこのオリジナリティは、どのスパイ映画にもない『ジェームズ・ボンド』というブランドゆえでしょう。
 まあ、今回特に良かったのは、Qがスカイフォールに比べて大活躍してたり、クレイグボンドが女たらしのユーモラスな英国紳士になってたりと、様式美にそってくれたところだと思います。むろん、スカイフォールからの映像美も欠けてはいません。オープング前の死者の日のお祭りのシーンは、特に美しかったです。

 クレイグボンド史上最も007らしい007。これが彼の最後となるかは不明だが、一応の決着はついた! 劇場で見る価値は十二分にある。





 ところで女版ジェームズ・ボンドことジェイミー・ボンド企画を書いてますが、いつのまにレズビアン設定になってるんだ。

2015年11月24日火曜日

文学フリマ、無事終了いたしました。

 昨日書くべきでしたが、あまりにも疲れていたので。
 『ライ麦畑にとらわれて』があまりにも急ピッチで作った本でしたので、どうせ売れないと思ってましたが、結構売れました! ありがたやありがたや(大学の知り合いに無理やり買わせた機乃の図)
 しかし、某所のバーで知り合い一緒に枯山水をしていたメンバーが全員出展していたり、何故か僕をウォッチングしている男性が現れたりと、なんとも奇妙な巡り合わせが。
 こうして本も出せ、何かつかめたような気もします。ありがたや。



……
 というわけで、来年五月一日の文フリも出るよ!
 (まだ予定だけど)

 今のところ、『ライ麦畑にとらわれて』にも収録された「Can I see the real me?」の主人公「ルビー・チューズデイ」を主人公とした女スパイ・冒険小説の予定です。(創元の締め切り1月だし、ハヤカワの締め切り3月末なのに大丈夫なのかよ)
 もうね、ボンドカー的なチューズデイカーとか書きたいし。ルガー片手に男をたぶらかす、ハードボイルドでクールな女スパイが書きたいんですよ。



 数カ月後そこにいるのは、またもや適当な短編集を出す機乃の姿であるのだろうか……?

2015年11月15日日曜日

文学フリマ、参ります。

 来る11月23日月曜日。私の二十歳の誕生日より三日後のこと、ついに文学フリマが開催されます。場所は東京流通センター。
 さて、昨年度知人のサークルに参加させて頂いた自分は、初めての同人誌即売会を目にし、
すごい、ぼくもやりたい!!!
 と、ろくな考えも無しに思い、翌日には友人に声をかけ始めていた。
 しかしまあ、いろいろ紆余曲折あったわけで。当初企画していた美少女×スーパーロボット企画はあえなく頓挫。続く物理書籍版『僕は僕であると、彼女に証明し続ける』の新宿篇までも、九月に某アルパカ氏に裏切られ、頓挫。露頭に迷う私には、やっつけ短編集という道しか残されていませんでした。
 で、まあ、完成したわけなんですが。

こんな感じに仕上がりました。表紙を書いてくれた苔山氏には感謝。

中身はこんな感じになっております。改訂版の『過剰な環状の愛情』、『’サンジュウク』のほか、書下ろしで新たに『Can I see the real me?』と『ライ麦畑にとらわれて』を収録。ほか、喜屋武みさき氏の短編も二編入っております。


 さてこちら。『Can I see the real me?』は現在考案中の女スパイ「ルビー・チューズデイ」の活躍を描くシリーズ、その前日譚となっています。(本編無いのに前日譚とはなんぞや)
 そしてもう一つ、表題作である『ライ麦畑にとらわれて』は、私のイギリス旅行記。それをホールデン風、というよりは、ホールデンにとらわれた(?)少年風に描いています。まあ、つまるところ中二病の少年が一日ロンドンを放浪するお話です。

 サークル「ソロ充独身主義共和国連邦」は、11月23日月曜日、東京流通センターにて開催される文学フリマに出展します。人生初の同人誌、サークル参加。もう何が何やら。場所は1階のC-13です。
 C-13です。大事なことなので二回言いました。

 まあ、初めてのことですし、なろうでさえあの有様の私がどうなるかは目に見えているような気がしますが(まあそういうわけで刷ったのは20部ほど)、お手に取って頂ければ幸いです。

2015年10月29日木曜日

UKロックから見るMGSⅤ

 遅ればせながらMGSⅤ TPPをクリアした。そしてプレイ中、かねてより書きたかったMGSとUKロックとの関連性を書き出したいと思う。
 小島監督といえば、大のUKロック好きである。そういえば、MGS5の初期のトレイラーはBGMにマイク・オールドフィールドのNuclearが使われていた。他にも、ソリッド・スネークの本名が「デイビッド」で、ゼロの本名はデイヴィッド・オウ。これは、デヴィッド・ボウイがら来ている(いや、2001年のデヴィッド・ボーマンかな?)だとか、雷電はむかし若い頃のデヴィッド・ボウイに似ていると言われたことがあるとか。ゼロ少佐のコードネームになりかけた「トム」というのは、同じくボウイのヒット曲『スペース・オディティ(Space Oddity)』に登場するトム少佐(Major Tom)から来ているとか。ともかくMGSシリーズにおけるUKロックネタを挙げ始めるとキリがない。
 今回は、特にMGS5とデヴィッド・ボウイの関連性を踏まえ、この未完の物語を考えていきたいと思う。
 まず、今回のMGS5は、なにを隠そうボウイの楽曲『世界を売った男("The man who sold the man")』から始まる。そして、最終ミッションのタイトルも「世界を売った男の真実」とある。ここからしてまずMGSⅤがボウイに強い影響を受けていることが分かるだろう。他にも「国境なき軍隊(MSF)」に代わる新たな組織名「ダイアモンドドッグス」は、同じくボウイのアルバム『ダイアモンドの犬(Diamond Dogs)』から来ているに違いない。しかも『ダイアモンドの犬』はジョージ・オーウェルの小説『1984年』をモデルにしているが、MGS5の舞台も1984年である。
 ほかにも、イーライの存在。ここはもう分かっている人には、あからさますぎたと思う。
 イーライは、どうにもリキッドの幼少期らしい。液体人間とか服に書いているあたり、完全に狙っている。しかし同時、彼はさも「ジギー・スターダスト」であるかのような紹介をされている。それはホワイト・マンバ=イーライの回収ミッションの際、カズがブリーフィングにて「地球に落ちてきた星屑」(だったかな……? 自信がない。要確認)とイーライのことを形容している。これは、同じくボウイのヒット曲であり、名盤とも言われる『ジギー・スターダスト(The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars)』から来ているのだろう。
 ボウイは70年代、同時期に『ジギー・スターダスト』というアルバムと『ハンキードリー』というアルバムを出しているが、前者は特に架空のロックスター「ジギー・スターダスト」関連の楽曲を集めている。ジギーの物語をざくっと説明すると、

 異星からロックスター「ジギー・スターダスト」が「スパイダーズ・フロム・マーズ」というバックバンドを従え、残り寿命の少ない地球へと降り立つ。ジギーは地球人たちを熱狂させ、救済せんとするが、最後にはファンの子供に殺され、ロックンロールの自殺者となる……。

 というようなストーリーだ。

 主人公であるジギーは中性的で、いかにも宇宙人のような風貌をしている。顔は白塗りで、髪の毛は真っ赤だ。彼は、五年後に滅亡の決まった地球(Five years)に落ちてきて、ロックンロールで地球を救おうとし、最後には死んでしまう。そんな彼がイーライとどのような共通点があるかと言えば、少年兵を救ったことだ。イーライは少年兵たちを統率し、大人が管理していた場所から外へと出て行った(一種のアウターへヴンだろうか?)。南アの黒人少年兵達にとっては、白人のイーライはまさしくジギーのような宇宙人的存在に写ったに違いない。そして、まさしくジギーたるイーライは、天国の外へと子供たちを連れだしていく。
 しかし、MGSⅤでのジギー・スターダストはイーライ=リキッドであろうか?

 アッシュズ・トゥ・アッシュズ(Ashes to Ashes)という曲がある。これは、同じくボウイのアルバム『スケアリー・モンスターズ(SCARY MONSTERS』に収録されている曲だ。

 この曲は、ボウイの初期ヒット曲であるスペース・オディティを否定した曲として有名だ。Space Oddityは、宇宙に行ったトム少佐を歌った曲。前述のゼロのコードネーム「トム」はここから来ている。しかし、このアッシュズ・トゥ・アッシュズでは、トム少佐を否定している。曲の冒頭でトム少佐を薬物依存の狂った人間であると言っているのだ。宇宙に行ったのではなく、幻覚を見ていただけなのだ、と。
 かつてのヒット曲の否定。これは、ボウイが常に変わり続けていることを指し示している。灰は灰に、塵は塵に。彼は常に自分の創造したキャラクターを『殺し』、そして新たに『生み出して』きた。
 さて、アッシュズ・トゥ・アッシュズの話をしたのは、MGSⅤでも同じく灰を扱い、そして自らの過去を『殺す』シーンがあるからだ。
 それは、声帯虫に感染したマザーベーススタッフを殺害していくミッション「死してなお輝く」だ。ホラーゲームを彷彿とさせるかなりショッキングなミッションであったので、覚えている方も多いだろう。ミッション中、スネークは味方殺しとしてヒューイに罵られ、しかしそれでも感染した仲間を淡々と殺していく。そして、最後には血に染まった鬼のようなスネークが現れるのだ。スネークは焼かれた味方の灰を顔に塗り、そして仲間の灰をダイアモンドに変えるよう命じる。彼らを灰にするな、と命じるわけだ。
 ここで、過去に天国の外(アウターヘヴン)を創りだしたビッグボスを殺された、とは考えられないだろうか。かつてのビッグボスは死に、ここに鬼としての新たなビッグボスが誕生した。それは、さながら過去の自分を殺すことで、新たなキャラクターへと変貌するボウイのように。

 MGSⅤは、各所で言われている通り未完の作品だ。もしかしたら、今後この『鬼』となった新たなスネークの物語が続いたのかも知れない。

 そしてこうも考えられる。小島プロダクションが消え、ソシャゲの方向性へとなったコナミ。小島監督はコナミを出たとか、出てないとか、いろいろな憶測が出ているが、ある意味で彼も『MGS』というブランドを殺し、新たな物を創造せんとしているのでは……?

 深読みのし過ぎだと言われそうなので、ここまでにしておきます。

2015年6月24日水曜日

最高に頭の悪い映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード(”Mad Max: Fury Road”)』

 公開日が攻殻と被ってたんで、どちらを見に行こうかと悩んでいた本作。いや、こっちをとっとと見るんだったと後悔してる。
 マッドマックスと言えば、メル・ギブソン主演の大人気シリーズ。荒廃した未来を舞台に、石油を奪い合う。まさしく世紀末を描いた作品だ。
 北斗の拳の元ネタ、と言えばしっくりくる人も多いだろう。

 さて、マッドマックスは2が大好きな私。だが、本作はもう、ソレ以上と言ってもいい。なんてったって最高に頭が悪いのだ。これを作ってる連中も、キャラクター達も、最高に頭が悪い!
 言う慣ればこの世界、ガソリン車や武器兵器などはそのまま、人間の知能レヴェルが中世、いやソレ以前に戻ってしまったと言うような世界だ。人々は、新たな資源を得るために奔走するのではなく、今あるソレを奪い合うために暴力の限りを尽くす。通信などはなく、光信号やら軍楽隊(ギターやドラム。ギターに至っては火を噴く)。車両に乗った槍部隊まで。なんかもう、馬がガソリン車に変わっただけ、みたいな世界だ。しかも、なんというV8エンジン信仰! ガソリンを吹きかけて加速するシーンなんて、大笑いした。
 しかし、本作、マックスのポリスインターセプターは出てこない。代わりに出てくるのは、ウォートラック。巨大なトラック。V8エンジンにニトロ。なんというモンスターマシン! ソレを駆るのは女戦士フュリオサ。義手の女性! 更に、フュリオサの故郷のババアども! もうなんだコイツら! 最高に頭が悪い! とにかく暴力、ガソリン、暴力、ガソリンだ! あと母乳だ!
 これを言葉で語るのは難しい。ともかく、頭が悪いのだ。こんな最高に頭の悪い映画、久々に見た。パシフィック・リム、バトルシップなどに続く、最高にアホな最高の映画になるだろう。
 
 まるでジェットコースターのような映画。しかも、ずっと落ち続けるようなこの加速感。そこら中から火が噴き、頬を熱する。もう、最高だ。
 さあ、劇場へ急げ。一緒に頭悪くなろう!

2015年6月21日日曜日

デッドエンドと、第三世界。ゴーストの行き場は……。『攻殻機動隊 新劇場版』

 早速公開日の夜に見に行ったのだが、終わったのが零時で、その前にはバイトも入れていたので、書く気力がなく断念。というわけで、翌日と為る今日、レビューを書き始めた。
 攻殻機動隊といえば、士郎正宗原作のSF作品。いわゆるサイバーパンク的な世界観を部隊に、犯罪・テロを未然に防止する攻性の組織、公安9課の活躍を描いている。
 今回の新劇場版は、OVAそしてテレビシリーズと続くARISE、その続編である。より詳細に言うならば、原作や押井攻殻、神山攻殻の9課が結成されるまでの話だ。

 さて、一概に攻殻といえども、作品ごとにカラーがある。原作の少しコミカルなテイストに反し、押井は何とも押井らしい。GITSやイノセンスなど、映像美と、また彼らしい演出。あと眠くなるとか。神山版で言えば、シリアスな展開に現代社会の諸問題を組み込んだ点があげられるだろう。では、ARISE・新劇場版のカラーはなんだろうか。
 私が思うに、ARISEには脚本の冲方丁の感じが出ていたように思われるが、しかし新劇場版では随分押井・神山版に沿わせた感じがあったように思う。まあ、それら作品につながる物語であるのだから、仕方ないといえば仕方ないのだが。
 して、本作のファクターとなる物がなにか、といえば、それはデッドエンドだ。
 デッドエンド、とは、技術的な理由による義体交換の不可能。それによる死のことだ。たぶんそう(実はそこまで確信を持って言えない)。まあ、要するに古いコンピュータが互換性を失い、死に絶えていくのと同じなんじゃ? というふうに私は感じた。
 物語は終始、このデッドエンドの回避と、企業の利益獲得の為の犯罪行為に関わる。少佐達は、それらの犯罪の芽を摘むために動くわけである。

 しかし、このデッドエンドの先にあるものは何なのか。ARISEでも登場した少佐の元上司、クルツ中佐が関わってくる。
 ぶっちゃけて言えば彼女がすべての犯人なのだが。彼女の狙いは、企業が思うような技術レベルの維持によるデッドエンド回避などではない。彼女の目的は第三世界。すなわち、義体から抜け出て、意識をネットの海へ向かわせることだ。2ndGIGでも似たようなものは在った。それでゴーストは保たれるのか、という問いはあるが。
 少佐はそれらを止め、最終的にクルツを信奉し、第三世界へ向かおうとしていた子供たちに「お前たちには電脳がある。ゴーストがある」といって、出て行く。

 さて、そこで少佐は前髪を伸ばすのだが。この前で、GITS冒頭のシーンに繋がるのである。そしてまた、SACの桜の24時間監視シーンにも。
 そのところは是非見て頂きたいところだが。さて、私は本作が、随分となんか、周りくどい言い回しをする作品に思えた。いや、攻殻自体そういう作品なのだが。アクションシーンは面白く、話の内容も良かった。個人的には笑い男事件には敵わないが。

 まあ、ともあれ私が一言物申したいのは、真綾少佐は前髪垂れてるの似合わねえなあ……。

2015年6月16日火曜日

限られた時の中で輝く。『ラブライブ!The School Idol Movie』

 言わずと知れた(いろんな意味で)アイドルアニメ、ラブライブ。その劇場版が公開されたということで、見てきた。今回はそのレビュー。

 さて、ラブライブといえば、廃校の危機を救うために女学生達がアイドルグループを結成する物語。劇場盤では、スクールアイドルの大会「「ラブライブ」に優勝した後の、主人公たちμ'sの活動と、その解散までを描いている。

 で、まあ、物凄くざっくりと言ってしまえばこの映画、アニメとそれ以前の企画(要するにプロモーションビデオ)のイイトコどりをしたものだ。つまるところ、
アニメで受けた展開に、評価の高いプロモーションビデオを入れ、それらに合わせてストーリーらしきものをあてはめた。
という感じだ。

 ストーリーらしきもの、と敢えて刺のある言い方をしたのは、無論それが微妙であったからだ。序盤μ'sはよく分からんうちに撮影があるとか何とかでNYらしき場所に飛ぶ。で、そこで色々あるのだが……正直、『アニメだから』と言って目を瞑っても、何とも承服しがたいシーンが幾つか見受けられた。話の内容が何だか繋がってるんだか繋がってないんだか。あれ、あそこであった話ってどこに行っちゃったの? という感じ。アニメで受けたシーンの焼きましを、無理やりねじ込んだ結果がこれなのだろうか。まあ、終始海未ちゃん可愛かったし、風呂あがり真姫ちゃんエロかったし、寝ぼけたエリーチカ可愛かったからいんだけど。(ソルゲトリオが好きなだけ)
 
 しかし、μ'sがNYから日本に戻ってくると、展開は一変する。その無理矢理な話の作りは一挙に消え(いや、そこまででもないかな。でも、まだ見ていられる)、まあ相変わらず話の内容は穂乃果の無茶と皆の協力でなんとかなる、というものだが。しかし、ここでようやっとまともな話に変わる。
 最後に流れたμ'sメンバーの名前の込められた曲は良かったと思うし、相変わらずライブシーンはよく出来ている。イイトコどりをした結果、確かにファンは嬉しいものになっただろう。堅実な作りだ。だが、批判する気持ちも分からんでもない。特に、後半がμ's解散とスクールアイドル存続の間で揺れるという、比較的まともな話の作りだったため、ただファンサービスに走りすぎた前半NY編の必要性があまり感じられなかった。高山みなみ演じる謎の女性シンガー(これは未来の穂乃果だろうか)が出てくる以外、あまりストーリーラインに関係が無い気がするのだ……。

 ともかく、堅実な作りのファンサービスムービーだった。公式ママライブや、穂乃果パパのラブライブレードとかは正直笑えた。あと、真姫ちゃん巻き戻ってた。
 言うまでもなくラブライバー、またはラブライ部員諸兄は見に行っただろうと思う。見いていないのなら、まあ、好きなキャラが可愛いのを身に行くために劇場に行くといいだろう。

2015年5月30日土曜日

純粋な”意識”は次の場所へ向かうか?『チャッピー(Chappie)』

 SF映画としては、今年結構期待していた作品。第9地区や、エリジウムで知られるニール・ブロムカンプ監督の最新作。
 この作品、公開前にソニー・ピクチャーズが一部編集して公開するとか、監督が「そんなの聞いてねえよ」とか言って、一悶着あった。期待していた分、私も結構ショックだった。
 が、まあ編集部分はそこまで気にならなかった。むしろ気になる点は他に多くあったわけだが……。
 ともかく、昨今ファミリー、カップル向けに映画を無理やり宣伝している感じがあるので、おそらくチャッピーもそうなったんじゃないか、とか考えている。


 さて、本作のざっくりしたあらすじは、というと、意識を持ったAIチャッピーの成長物語である。
 舞台は南アフリカのヨハネスブルグ。(そういや第9地区もヨハネスブルグが舞台だった)治安維持の為に警察はAIを搭載した人型ロボットを投入。犯罪の発生率は低下していた……。そんな中、ドロイドの開発者であるディオンは、意識を持った完全な人工知能を開発。それをドロイドに搭載、実験を申し出る。だが、その実験は却下されてしまう。
 諦められないディオンは、破棄処分が確定されたドロイド(チャッピー)にAIのデータを転送しようとする。だが、そんな中、犯罪組織にディオンは誘拐されてしまう……。
 子供のようなAI、チャッピー。ヨハネスブルグの過酷な社会で成長する『少年(チャッピー)』の半生を描いた作品。

 と、言ったところだろうか。
 詳しくは本編を見て頂きたいところだが、しかし私は、この作品に「違和感」を感じてしまった。
 その違和感の正体というのは、『意識』というものの捉え方だ。
 愚かな、嘘つきの人間と、純粋なAI。その対比こそがこの作品の本質であり、まあ、それがテーマであろうことは簡単に理解出来る。実際、その点ではよく出来ていると感じる。リアルなドキュメンタリー調から始まる物語は、人間の本質に迫っているだろう。
 だが、そのようなリアルさを描いているがゆえに、AIが持つ意識という物に足を突っ込んだ途端、急に違和感が生じたわけである。
 物語中盤、チャッピーは自らが破棄処分の確定された個体で、バッテリーが限界に近づいていると知る。彼は死を回避するため、自身の『意識』をデータとして転送することを思いつく。そして、見事に意識という物を見つけ出すのだ。
 だが、考えてみて欲しい。チャッピーに意識を生じさせたのは、他でもないディオンだ。彼は、そのようなプログラムを作り、チャッピーにそれをインストールしたはずなのだ。しかしながら、彼は成長し、自我を持ったチャッピーを観て「こんなことになるとは思わなかったんだ」とか何とかのたまうのである。
 いや、待ってくれ。プログラムしたのお前だろ? なんでお前、意識なんてわけわからん物を、理解できぬままプログラムできたの?
 いや、わけのわからんまま放ったらかすのは、まあ訳の分からんまま生じてしまった、セレンディピティのようなものだと考えられる。だが、それは意識としてデータとして捉えられるものだと、後々に判明する。しかも、それをアンドロイドに転送することまで可能にしてしまう。
 SF的な設定。大いに結構。だが、序盤のリアル志向な始まり方のせいで、この曖昧な設定が浮いて見えてしまう。それが違和感の正体だろう。

 と、まあ。相変わらずメカニックは格好良かった。問題は、余計な所に手を伸ばしてしまったことのような気がする。
 あと、「テンション」って書かれたオレンジ色のズボンがすっごい気になった。あれ何処に売ってるんだ。

2015年4月10日金曜日

芸術家になれない者が批評家になる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 かつてヒーロー物の映画で一斉を風靡した、落ち目の俳優。リーガン・トムソン(マイケル・キートン)。そんな彼が今一度羽ばたく為、舞台俳優としてブロードウェイに立つ。

……というのが、本作のざっくりとしたあらすじ。先程、某◯ahoo!映画のレビューを見てきたが、まあ酷評されたり賞賛されたり。確かに見ていて、人を選ぶ映画だなぁ、とは感じた。
 もしコレが、元ヒーロー映画の主役が妄想したり云々して再び舞台に返り咲くサクセスストーリーなら、きっとそういう人も黙って首を縦に振っただろう。だが、これそういう映画じゃない。芸術家になろうとする主人公が、ずーっと苦悩し続ける映画だ。だから、きっと想像していた面白さとは違ったんだろう。


 
 それで、私がコレを見て思ったのは、
エンタメ映画批判に見せかけた、芸術()作品批判。
 というもの。
 劇中でマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が言うセリフの中に、「芸術家になれない者が批評家になる」みたいなセリフがあった。調べてみたところ、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言葉らしい。おそらくこの映画の言いたい事は、これなんじゃないのか、と私は思った。
 劇中では、エンタメ映画への露骨な批判をするシーンが登場する。ス◯イダーマンとか、アイ◯ンマンとか、ト◯ンスフォーマーみたいなのがチープな感じで踊っていたりする。これだけ見たら、まああからさまに娯楽映画を批判しているのだろうとは思う。だが、リーガンが役者として返り咲いた過程を見ると、どうにもそのようには思えないのだ。
 この映画は、シームレスに映像が流れ続ける。リーガンの妄想も、現実も、全て境界無く続く。だから視聴者は、妄想と現実の判断がかなり曖昧になってくる。むろん、それが現実(リアル)ではなく虚構(フィクション)であると仄めかす描写はある。だが、ほとんどそれは曖昧だ。彼が超能力を使うシーンがあるが、それが妄想だと根拠付けする描写はない。
 妄想の中で、彼の中の『過去の栄光』=『バードマン』は、彼に囁き続ける。「お前はバードマンだ」と。これは、おそらく芸術家紛いの役者崩れになろうとしているリーガンへの皮肉だと思われる。
 バードマンの囁きに、彼は反抗し続ける。だが、やがて彼はソレを受け入れ、自分が求めているのは血や暴力、爆発なのだと知る。
 それで、最終的にリーガンが如何にして役者として返り咲いたかと思えば、それは『スーパーリアリズム』とも言うべきものだった。すなわち、自殺シーンを実銃でやって、他の俳優や観客にも『本物の血』を浴びせるというものだ。そんな極度の現実性こそが芸術だ、として彼は再び役者として成功する。

 だが、待ってくれ。此処で言う『血』と、俗っぽいエンタメが見せる『爆発』とかって、なんか似たようなもんじゃないのか? スーパーリアリズムなんて言葉で取り繕ってはいるが、要はその場で起きた流血沙汰に興奮しているだけではないか。それでは、結局双方の本質は変わらないじゃ?
 映画は、最後にリーガンが入院するシーンで終わる。彼が放った銃弾は、自らの鼻を吹き飛ばした。奇跡的に一命は取り留めたものの、鼻は新しい物に付け替えることに。この時彼がしている包帯が、何ともバードマンのマスクのよう。
 そうしてラストシーンで、彼は妄想に浸りながら、病室の窓から飛び出す。それを見つけた娘のサム(エマ・ストーン)が、最後に空を見てニッコリと笑う。それで、この映画は終りだ。
 さて、この笑顔の意味は何だったろう。空を見ていた、ということは、やはりリーガンには妄想では無く本当に超能力があった、ということだろうか。だとすれば、それを見てニッコリとした娘の姿は、さながらスーパーヒーローものという実に俗っぽい映画をみて楽しんでいる観客のようにも思える。

 で、この映画のタイトル『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とは何だったのだろうか。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、リーガンが誤って実銃を使った→それによるスーパーリアリズムの確立。という奇跡を表すタイムズ紙の見出しだ。つまり、このカッコの中の文句は、結局リーガンが流血沙汰で客を興奮させることを言っているんじゃないだろうか。で、バードマンというのは、同じく俗っぽいエンタメ映画のこと。
 リーガンに残された、役者として再び返り咲く方法。それこそが、”バードマン”あるいは”無知がもたらす予期せぬ奇跡”だったのでは。
 と、ちょっと考察してみたが、よくわからん。
 まあ、人を選ぶ映画だなぁとは思いました。

2015年2月23日月曜日

番犬であり続けようとした男。『アメリカンスナイパー(American Sniper)』

 予告編からもう痺れて、絶対に見に行こうと思っていた本作。各所で物議を醸しているようだが、取り敢えず私なりの感想を書き出してみようと思う。ネタバレ有りです。


 さて、本作は、イラク戦争で160人以上を殺し、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵からは「悪魔」と恐れられた狙撃手、クリス・カイルの物語。戦地では「伝説(Legend)」と呼ばれた彼が、日常生活と戦場との間で苦悩するヒューマンドラマ。
 と、こういうネタはベトナム戦争の頃から随分とやり尽くされてる。有名ドコロだとランボー。私の好きな作品だと、リーサル・ウェポンのリッグスもベトナム帰還兵で、自殺志願者だった。リッグスの場合、相棒マータフとその家族との触れ合いによって、徐々に心を取り戻していく。同じイラク戦争だと、ハート・ロッカーなどもあげられるだろう。ハート・ロッカーの場合、結局日常に馴染めなかった主人公が再び戦地に戻るという皮肉な終り方であったが。
 さて、いずれにしてもこういうネタは結構ある。そして、そのたびにアメリカ万歳な雰囲気があるだのなんだのと言われる。だが、私が思うにクリス・カイル(あくまでも劇中の彼。自叙伝は読んでいない)は、『戦場に取り憑かれた男』というよりは、『番犬であろうとした男』というように思われる。詳しくは後述する。
 こういう話でよくあるのは、結局彼の居場所は戦いの中にしか無い、というもの。実質カイルは、四度イラクへ派兵された。作中でも、祖国アメリカへ戻るたびに『戦場の感覚』というものが抜けず、苦悩する場面が多かった。だが、最終的にカイルは、退役軍人をケアするという形で、徐々に心を取り戻していく。その後、彼は助けようとした元軍人に殺されてこの世を去るのだが。
 私が思ったのは、彼は戦場が好きで戦争に行ったのではないのでは、ということだ。ハート・ロッカーの場合は、戦場にしか居場所がないという終り方で閉められたが、だが本作は違う。それには、冒頭部でカイルの父が言った言葉がキーワードになってくると思われる。それこそが以下の三つ、羊、狼、番犬だ。(英語だとSheapdog:牧羊犬と言っていたような気もするが、定かではない)
 「羊」というのは、御存知の通り憐れな子羊ということ。「狼」という悪に危害を加えられても抵抗できない憐れな存在だ。だが、そんな羊を狼から守る、類まれなる存在がいる。それこそが「番犬」だ。冒頭部、虐められていたカイルの弟を「羊」として、いじめっ子が「狼」。そして、いじめっ子を殴り倒したカイルが「番犬」として喩えられた。そしてカイルの父は、子供たちを「番犬」に育て上げるつもりでいたわけだ。
 彼は、戦場に取り憑かれていたわけでもない。戦場にしか居場所が無かったわけでもない。ただ、父がかくあるべきと示した人間であり続けようとしたのではないだろうか。祖国国民と、愛する家族という「羊」を守る「番犬」であろうとし続けたのではないだろうか。現に作中何度か、カイルは家族を守るために戦場に行くのだ、と口にしていた。
 故に私が思ったのは、これはアメリカ万歳な戦争映画でも、PTSDに陥った男の苦悩を描いたのでもない。純粋に「番犬」であろうとした、不器用な男の半生ではないだろうか、ということ。だからこそ彼は、戦場で仲間を救うことではなく、戦場より帰還し苦悩している仲間を救うことに意義を見いだせたのではなかろうか。
 そして本作は、実際の映像によるカイルの葬儀が流れたのち、無音のエンドロールが流れる。さて、このエンドロールは何を示していたのだろうか。ゆっくりと作品の意義を考える時間だろうか(その割に途中で劇場出てくやつめちゃめちゃいたぞ)。それとも、カイルの死を示す静寂であったのだろうか。
 戦争映画、というよりもヒューマンドラマ。個人的には見ていて楽しかった。コテコテの戦争映画より、こういう男の話が好きだ。

2015年1月19日月曜日

最も恐ろしいのは、社会に隷属する人間か。『劇場版PSYCHO-PASS サイコパス』

 昨日、サイコパスだけは見る気が起きないと言った私。まあ、二期があまりにも微妙だったので、期待できなかったからなのだが。その上、なにやらサイバーパンク好きなオッサンどもをターゲットに当ててたのに、劇場には腐女子ばっかだと聞いたので(現に私がパトレイバーを初日に見にいった時はそんな感じだった)、じゃあ批判するためにも見に行ってやろう。と、勢い任せに見てきた。
 で、見てきたのだが……。



 すまん、ふつうにおもしろかった。

 というか、昨日見たアップルシードより良かったかもしれない。映像の質はさておくが。


 ところで、私がサイコパス二期が楽しめなかった最大の理由は、求めていたものと違うものを突きつけられたからだ。聡明な視聴者諸兄もそうであったはずだ。一期を視聴し、二期が始まると聞いて何を期待した? 咬噛とギノさんのホモホモしい展開? 違う。六合塚と唐之杜のレズセックス? 気持ちは分かるが、違う。
 二期に何を求めていたかと言えば、それは後日談だ。咬噛が消え、常守が先輩になった公安のアフターストーリーのはずだ。それがなんだかよくわからん、ストーカーのマザコンひろしの話にすげ変わっている。そりゃ、楽しめなくて当然だった気がする。
 劇場版は、そういう意味で私の見たかった三点と、もう一つ興味深い点を押さえてくれている。その三つというのが、まず前述の後日談。そして、ビバップばりの格闘アクション。劇場版では、そこにサイボーグ要素まで加わって、これでもかというアクションを見せてくれた。三つ目が、SF特有のガジェットの見せ場だ。

 では、もう一つの興味深い点とは何か。それは、昨今の国内SFで流行の、いわゆる管理社会、管理都市ものの疑問点に立ち向かっていることだ。その疑問点が何かというと、
発展途上国で管理社会は成立するか、
 というものだ。
 管理社会というのを、私は現代の民主主義政府社会の先にあるものだと考えている。いや、元を正せばそのようなディストピア小説は、社会主義の現実批判に端を発する訳だが、しかし社会主義も資本主義社会へのカウンター的なところがあるから、まあよしとしよう。
 話が逸れたが、問題の「疑問点」というのは、発展途上国すなわち紛争当事国で管理社会は成立するかということだ。人間がシステムに飼い慣らされる社会というのは、その前段階が必要なはずだ。つまり、民衆が政府の下に位置する社会。その政府が、民衆をシステムによって管理するかどうかが、管理社会であるかどうかというところだろう。だが、そんな民主主義も政府社会もへったくれもない紛争国では、そのようなシステムが運営可能であろうか?
 私はこの疑問点について、伊藤計劃のハーモニーについて考える際、ぶち当たった。というのも、私が以前考えたハーモニーのアフターストーリー、『〈harmony After/〉』にて、「意識消失は、紛争当事国でも完全に発生しうるのか」という疑問の中で浮上した。世界各国の発展途上国すべてが、日本のようにWatchMeを導入している訳ではない。ならば、どこかで意識が存在する人間が現れるはず。という、疑問だ。
 劇場版サイコパスでは、アジアの紛争国にシビュラシステムを輸出するという形で、この疑問への解を導き出している。すなわち、システムが開発独裁を意図的に発生させることで、国家を管理社会が実現可能なレベルにまで発展させるということだ。そうして、社会が一定レベルまで成長したところで、システムは独裁に関わった者を一掃する。
 で、そんなことを平然とやってのけるシステムの手駒として、霜月のような存在が出てくる。空気を読め、という一言でシステムが発展途上の社会を取り込んでいく様子を容認している。一方で、やはりそれらに懐疑的なのが、咬噛や常守だ。咬噛は、第二の槙島になるかと言われたが、しかしそうはならなかった。なりかけていたが。
 物語は、シビュラが導入された件の紛争当事国で、シビュラにあらがう咬噛。そして、彼を追う常守という形で進んでいく。やがて咬噛を見つけた常守は、成り行きで咬噛の味方につく。そこでシビュラに従いながらも、圧倒的な武力を行使する政府軍が描かれる。
 とまあ、そんな「反政府弾圧怖い」という演出があるわけだが、しかし最後にそれらをも容易くぶっ殺していく日本警察こそが、一番恐ろしい。その対比というか、演出は、是非見てもらいたいところだ。


 というわけで、遅ればせながらサイコパスを見てきた。個人的に、アクションもりもりのSFガジェットもりだくさんで嬉しかった。ここまでおもしろいと、逆に二期って何だったんだと思えてくる。
 きっと私と同じく、二期がつまらなかったから、敬遠しているSF好きがいるはず。少なくとも、二期よりは格段におもしろいかったと私は感じた。






 とはいえ一つ文句だけを言わせてもらうとしたら、あんまり日本の声優さんに英語で演技させないほうがいいんじゃないかなぁ……というところだ。

2015年1月18日日曜日

サイボーグ萌え&巨大兵器萌え『アップルシード アルファ』

 今年はSFアニメが目白押し。アップルシードに始まり、伊藤計劃作品三つに、攻殻機動隊……(サイコパスはあんまり見る気がおきない)。そんなわけで一発目、アップルシードαを見てきた。
 本作は、アップルシード、エクスマキナなどの前日譚。ブリアレオスとデュナンがオリュンポスでESWAT隊員になる前の物語。つまり、他の作品を見てなくても安心、ということ。SFアニメの取っ掛かりとして、アクション満載の本作を見てみるのもいいかもしれない。
 本作の何よりものウリは、美麗なCGだろう。エクスマキナの時と比べて、かなりよくなっている。ざっくり言ってしまうとFFみたいなCGになっているわけだが。それにしても、日本もCGイケるじゃないか! と思えてしまう出来。
 で、そのような美麗なCGで描かれるのは、世界大戦によって荒廃した未来。そして、そこに生きるサイボーグたち。諏訪部レオス(勝手に命名)始め、玄田哲章ボイスで喋る憎めない悪役的な感じのサイボーグ。また、名塚佳織ボイスで喋る黒くてつやつやで、ケツのエロいサイボーグとか。
 しかしどちらかといえば、これらのメカニック、アメコミ映画で出てきそうな感じのデザインだ。まあ、アームズフォートみたいな巨大兵器が出てきて、それの排熱シーンがカッコ良かったからいいのだが。


総評
 一言で言ってしまえば、そこそこ。綺麗な映像でそれなりのSFアクションをやってみた程度の出来だと言える。可もなく、不可もなく。いや、カッコイイのだけれど。物語はありきたりなものと言える。アクションはカッコイイが、しかしエクスマキナの時のようなカッコよさはない(それはお前がジョン・ウー映画好きなだけだろ)
 面白かったが、あと一歩な感じ。それなりに良い出来だったからこそ、もう一声と言いたくなる。そういえば、4DX上映もあるから、そのことを考えているのやもしれない。






 ……あ、でも玄田哲章さんが凄い良い味出してた。

2015年1月10日土曜日

猫パンチは目玉を抉る。『シン・シティ 復讐の女神(Sin City: A Dame to Kill For)』

 本日、TNGパトレイバーと一緒に見てまいりました。
 実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
 一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。


 こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
 まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
 そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
 で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
 正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
 三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
 そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。 
 とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。

 ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。