昨日、サイコパスだけは見る気が起きないと言った私。まあ、二期があまりにも微妙だったので、期待できなかったからなのだが。その上、なにやらサイバーパンク好きなオッサンどもをターゲットに当ててたのに、劇場には腐女子ばっかだと聞いたので(現に私がパトレイバーを初日に見にいった時はそんな感じだった)、じゃあ批判するためにも見に行ってやろう。と、勢い任せに見てきた。
で、見てきたのだが……。
すまん、ふつうにおもしろかった。
というか、昨日見たアップルシードより良かったかもしれない。映像の質はさておくが。
ところで、私がサイコパス二期が楽しめなかった最大の理由は、求めていたものと違うものを突きつけられたからだ。聡明な視聴者諸兄もそうであったはずだ。一期を視聴し、二期が始まると聞いて何を期待した? 咬噛とギノさんのホモホモしい展開? 違う。六合塚と唐之杜のレズセックス? 気持ちは分かるが、違う。
二期に何を求めていたかと言えば、それは後日談だ。咬噛が消え、常守が先輩になった公安のアフターストーリーのはずだ。それがなんだかよくわからん、ストーカーのマザコンひろしの話にすげ変わっている。そりゃ、楽しめなくて当然だった気がする。
劇場版は、そういう意味で私の見たかった三点と、もう一つ興味深い点を押さえてくれている。その三つというのが、まず前述の後日談。そして、ビバップばりの格闘アクション。劇場版では、そこにサイボーグ要素まで加わって、これでもかというアクションを見せてくれた。三つ目が、SF特有のガジェットの見せ場だ。
では、もう一つの興味深い点とは何か。それは、昨今の国内SFで流行の、いわゆる管理社会、管理都市ものの疑問点に立ち向かっていることだ。その疑問点が何かというと、
発展途上国で管理社会は成立するか、
というものだ。
管理社会というのを、私は現代の民主主義政府社会の先にあるものだと考えている。いや、元を正せばそのようなディストピア小説は、社会主義の現実批判に端を発する訳だが、しかし社会主義も資本主義社会へのカウンター的なところがあるから、まあよしとしよう。
話が逸れたが、問題の「疑問点」というのは、発展途上国すなわち紛争当事国で管理社会は成立するかということだ。人間がシステムに飼い慣らされる社会というのは、その前段階が必要なはずだ。つまり、民衆が政府の下に位置する社会。その政府が、民衆をシステムによって管理するかどうかが、管理社会であるかどうかというところだろう。だが、そんな民主主義も政府社会もへったくれもない紛争国では、そのようなシステムが運営可能であろうか?
私はこの疑問点について、伊藤計劃のハーモニーについて考える際、ぶち当たった。というのも、私が以前考えたハーモニーのアフターストーリー、『〈harmony After/〉』にて、「意識消失は、紛争当事国でも完全に発生しうるのか」という疑問の中で浮上した。世界各国の発展途上国すべてが、日本のようにWatchMeを導入している訳ではない。ならば、どこかで意識が存在する人間が現れるはず。という、疑問だ。
劇場版サイコパスでは、アジアの紛争国にシビュラシステムを輸出するという形で、この疑問への解を導き出している。すなわち、システムが開発独裁を意図的に発生させることで、国家を管理社会が実現可能なレベルにまで発展させるということだ。そうして、社会が一定レベルまで成長したところで、システムは独裁に関わった者を一掃する。
で、そんなことを平然とやってのけるシステムの手駒として、霜月のような存在が出てくる。空気を読め、という一言でシステムが発展途上の社会を取り込んでいく様子を容認している。一方で、やはりそれらに懐疑的なのが、咬噛や常守だ。咬噛は、第二の槙島になるかと言われたが、しかしそうはならなかった。なりかけていたが。
物語は、シビュラが導入された件の紛争当事国で、シビュラにあらがう咬噛。そして、彼を追う常守という形で進んでいく。やがて咬噛を見つけた常守は、成り行きで咬噛の味方につく。そこでシビュラに従いながらも、圧倒的な武力を行使する政府軍が描かれる。
とまあ、そんな「反政府弾圧怖い」という演出があるわけだが、しかし最後にそれらをも容易くぶっ殺していく日本警察こそが、一番恐ろしい。その対比というか、演出は、是非見てもらいたいところだ。
というわけで、遅ればせながらサイコパスを見てきた。個人的に、アクションもりもりのSFガジェットもりだくさんで嬉しかった。ここまでおもしろいと、逆に二期って何だったんだと思えてくる。
きっと私と同じく、二期がつまらなかったから、敬遠しているSF好きがいるはず。少なくとも、二期よりは格段におもしろいかったと私は感じた。
とはいえ一つ文句だけを言わせてもらうとしたら、あんまり日本の声優さんに英語で演技させないほうがいいんじゃないかなぁ……というところだ。
2015年1月19日月曜日
2015年1月18日日曜日
サイボーグ萌え&巨大兵器萌え『アップルシード アルファ』
今年はSFアニメが目白押し。アップルシードに始まり、伊藤計劃作品三つに、攻殻機動隊……(サイコパスはあんまり見る気がおきない)。そんなわけで一発目、アップルシードαを見てきた。
本作は、アップルシード、エクスマキナなどの前日譚。ブリアレオスとデュナンがオリュンポスでESWAT隊員になる前の物語。つまり、他の作品を見てなくても安心、ということ。SFアニメの取っ掛かりとして、アクション満載の本作を見てみるのもいいかもしれない。
本作の何よりものウリは、美麗なCGだろう。エクスマキナの時と比べて、かなりよくなっている。ざっくり言ってしまうとFFみたいなCGになっているわけだが。それにしても、日本もCGイケるじゃないか! と思えてしまう出来。
で、そのような美麗なCGで描かれるのは、世界大戦によって荒廃した未来。そして、そこに生きるサイボーグたち。諏訪部レオス(勝手に命名)始め、玄田哲章ボイスで喋る憎めない悪役的な感じのサイボーグ。また、名塚佳織ボイスで喋る黒くてつやつやで、ケツのエロいサイボーグとか。
しかしどちらかといえば、これらのメカニック、アメコミ映画で出てきそうな感じのデザインだ。まあ、アームズフォートみたいな巨大兵器が出てきて、それの排熱シーンがカッコ良かったからいいのだが。
総評
一言で言ってしまえば、そこそこ。綺麗な映像でそれなりのSFアクションをやってみた程度の出来だと言える。可もなく、不可もなく。いや、カッコイイのだけれど。物語はありきたりなものと言える。アクションはカッコイイが、しかしエクスマキナの時のようなカッコよさはない(それはお前がジョン・ウー映画好きなだけだろ)
面白かったが、あと一歩な感じ。それなりに良い出来だったからこそ、もう一声と言いたくなる。そういえば、4DX上映もあるから、そのことを考えているのやもしれない。
……あ、でも玄田哲章さんが凄い良い味出してた。
2015年1月10日土曜日
猫パンチは目玉を抉る。『シン・シティ 復讐の女神(Sin City: A Dame to Kill For)』
本日、TNGパトレイバーと一緒に見てまいりました。
実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。
こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。
とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。
ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。
実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。
こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。
とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。
ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。
2014年12月30日火曜日
〈harmony After/〉 1
此の物語は、決して感情を喚起させる為のテクスト、すなわちETML1.2などでは書かれていない。その証拠に、文頭にETMLタグというものは存在していないはずだ。
此のテクストは、ひどく古典的な方法により入力された。そういうものなのだ。
かつて、人は感情を失った。いや、より正確に言うならば、意識というものを失った。なぜならそれは、ヒトには必要のないものだから。人間が真に社会とハーモニーを奏でる為には、そこに存在する人間の、非常に泥臭い意識と呼ぶべきものを削除する必要があったからだ。
よって、人間の意識は削除された。それはとても幸せなことだ。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。
しかしそんな幸せを感じる事は出来なかった。ヒトはうれしいとか、楽しいとかいう感情を持つことは無かった。それを所持することは、悪とされたからである。意識は必要ない。ただ最良と見做される選択肢を享受し続ければいい。それは、傍から見れば過去一般的に言われた「ヒト」の概念に一致するが、その内部のものというのは、ロボットやアンドロイド、ゾンビなどという方が正しかった。コンピュータが、喜びを感じることは、不可能だ。
エモーション。いまやそれは、Emotion-in-Text Markup
Language――すなわち、ETMLでしか呼び起こすことの出来ないものとなっている。だが、それも所詮、誰かの感じた感情というやつを、僕というハードの中で再現しているだけにすぎない。再生しているだけにすぎない。それは、本当の意味での意識を回復したとは呼べないだろう。単純に写真を見せられれただけでは、実際にその風景を見た時に感ずる物を理解できないのと同じだ。
しかし、僕は此処に宣言する。僕は、理解した。意識と呼ばれる遺物を。それこそが、此のテクストの最大の存在理由だ。それが、僕の人間宣言。
僕は、意識を持っている。僕は、人間だ。
そんなのは不可能な話だと、この社会では誰もがせせら笑うかもしれない。だが、それもおかしな話だ。いまや人類は、メディモルが脳血関門を越えて分泌する薬剤のおかげで、意識――報酬系を喪失した。だが、それは決して完全消失したわけではないのだ。あくまでも機能停止。僕らの脳にある意識と呼ぶべき器官は、ひっそりと昏睡状態に陥った。薬で眠らされたのだ。
いま、人類は薬漬けだ。かつて存在した生府社会以上に、薬漬けだ。薬がないとこの社会は成り立たない。この社会はとてもナイーブで、少しでも荒いタオルに擦られると、すぐにボロボロと崩れていってしまう。なぜなら、それは想像力を失ってしまったから。自己内で虚構を創造する、リアルをシミュレートする力を失ってしまったから。誰しも不足の事態というやつを想像できなくなってしまったから。だから完全に社会が制御された状態でしか、人間はハーモニーを奏でられない。
でも、ある程度、此の社会にも危機対応プログラムのようなものもあるのだろう。だが、それも圧倒的なリアルの力には勝てない。ただ現実にひれ伏すことしか出来ないのだ。
僕は、その中で目覚めた。圧倒的なリアルの力。それを目の前にして、僕は意識という自己内に存在する、禁忌とも言うべきものを解放しなければならなくなった。それは、かつて殺人と呼ばれた行為の中であった。
僕のいた地域では、僕らのことをケル・タマシェクと呼んだらしい。それが何を意味するか、僕には分からないけれど、それらが昔、誰かと誰かを区別するために役立っていたことだけは分かる。
僕らの国は、ある日突然統率された。意識を失った僕らは、途端に戦争をやめ、海外からやってきた人間に従って国家を再生し始めたのだとい
う。そう爺様が言っていた。
昔、意識を必要としない民族が、コーカサスの奥地にいたの……。
テクストは僕にそう語りかける。
もちろん僕は、それが真実であるかどうか、分からない。というよりもむしろ、僕にとってそれは普遍的なことであって、遠くロシアの奥地にあった異質なモノ、という感覚はなかった。
いま、この瞬間に至るまでは。
これから話すのは、
戦列者の物語。
落伍者の物語。
つまりそれは、覚醒した「ぼく」の物語。
かつて存在した無意識からではなく、意識から愛を込めて、僕はメッセージを送る。
僕は意識の無い、至って普通の人間にすぎなかった。あの社会の中で、での話だけれど。
かつて、《大災禍》と呼ばれる世界的な危機があったという。その大暴動の果てに、人類は恒常性を維持するシステムを発案した。WathcMeと呼ばれるそれは、いま、真のハーモニクスを形成したこの社会においても、名残として僕らの体に刻み込まれている。それが管理し、分泌する医療分子群、メディモルもそうである。先生は言った。それらのおかげで、今の私たちの調和が存在しているのよ、と。
僕らはそれを、おかしいなどとは思わなかった。思えなかった。社会の調和を望むのが当然であり、それが大昔に人々が追い求めた神の国であろうと、そう考えることしか出来なかったからだ。意識はなく、僕らはそう考えることを余儀なくされた。
しかし、その調和というものは、バラバラの人間たちをひとまとめにし、「右向け右」といえば全体が右を向くような、そういったものではない。むしろそれは、よく統制された軍人に対して、よりよく命令を伝達出来る通信システムを与えるような、そんなものなのだ。だから真のハーモニクスとはいえない。いや、言えるのかもしれないけれど、それはひどく脆弱だ。少しでも土台に亀裂が入れば、その調和は不協和音を奏でる。素人にに高級な道具を与えても宝の持ち腐れのように。豚に真珠、なのだ。
そしてお生憎様、僕らの社会では、そのハーモニーの土台に微かな亀裂が生じていたのだ。
その亀裂が何か、僕には分からない。その間のことは、所詮無意識の出来事だから。
もちろん脳は記憶している。だが、それを思い出そうとすると、「何故」というフレーズばかりが出てくる。無意識だからだ。僕の意識と相反する行動を行っていても、そこには僕の意識がない。だから矛盾が生じている。無意識が最良と見なすものが、僕の最良と違うこともある。というよりも、それの連続だ。
僕は、無意識の中で育ち、そして死ぬことを選択した。
自殺。
過去、そして現在。禁忌とされる最悪の行為によって、僕は社会とのハーモニーを奏でようとしていた。
世界は、僕に「死ね」と命じたのである。
2014年11月23日日曜日
事象の地平線の先にあるモノは? 『インターステラー(Interstellar)』
ダークナイト、インセプションなどで知られる映画監督、クリストファー・ノーラン。彼の最新作である『インターステラ―』を見てきたので、そのレビュー。ネタバレ注意です。
さて、本作は前々から目をつけていた訳ですが、ざっくばらんにそのストーリーを言うと、要するに「ハリウッド版宇宙戦艦ヤマト」という感じ。作物が育たなくなり、食料危機に陥った未来。このままでは人類は餓死。それどころか、大気中の酸素がなくなり人類は窒息死してしまう。それを回避するため、居住可能な惑星を探しにいく……というもの。
宇宙飛行士を主人公とした映画というと、だいたい『2001年宇宙の旅』、そして最近では『ゼロ・グラビティ』が引き合いに出されます。しかし、本作のキモは、それら二作品とは明らかに違います。比べるポイントが、明らかに違うように思えます。
というわけで、私が思ったこの作品のキーポイントはこの二つ。
人間の欲望、野心から生まれる嘘。
事象の地平線を超えるモノ。あるいは、超えた先にあるモノ。
この二つです。
まずは、前者ですが。正直このへんは「なかだるみ」と私が感じた箇所でもあります。
順を追って説明すると、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)は元NASA所属のパイロット。しかし今では一線を退き、農夫として息子と娘、父と共に暮らしていました。息子は農家を継ぐ予定で、一方娘のマーフィー(ジェシカ・チャステイン)は、宇宙に興味を抱く少女。そんな彼女の部屋で、ある日異変が起きる。ポルターガイスト現象や、重力の異常など。そしてそれらは誰かからのメッセージだと判明する。
メッセージに従い、クーパーとマーフィーはある座標へ。そこにあったのは極秘裏に活動していたNASAだった。
NASAは、人類の危機に対し、二つのプランを計画していた。プランAは、コロニーを建造して移民するというもの。しかし、その為には重力制御装置の開発が必須。重力に関する方程式を解く必要があった。一方のプランBは、突如発生したワームホールの先にある別銀河に人間の受精卵をまき散らすというもの。クーパーは、プランBの為にワームホール探査に行った先遣隊を救出。並びに居住可能な惑星の調査のため、宇宙船のパイロットに選ばれる。
……という感じなのですが。これらの大半は嘘です。
何が嘘かというと、居住可能な惑星を見つけたという先遣隊のマン博士。そして、方程式を解くと言ったブランド教授。二人は欲望の為に嘘をついたのです。マン博士は、救援を求めて嘘の情報を地球に送り、更に手柄を自分の物にするためクーパーたちを騙します。そのくせ「俺は人類の為に戦ってるんだ!」みたいなことを言っちゃう矛盾っぷり。
そしてもう一人、ブランド教授はというと、コロニー建造の為の方程式はとっくに解けていた。というよりも、解けないということが分かっていた。というのも、解くためには「事象の地平線(イベント・ホライゾン)」を観測する必要がある。ブラックホールを探査する必要があった為です。しかし、プランAの嘘をついたのは、「地球にいる人々を見捨てる」ということを言ってしまえば、クーパー達は宇宙へ行かなかっただろう、という理由から。
つまり、どこまでも人の欲望や、存在することへの固執のようなものを描いています。物語の中盤はずっとこれ。
「あれは嘘だ」
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
みたいなやりとりが連続します。
で、超えると一番のキモ。事象の地平線を超えた先が出てきます。
ブラックホールで重力ターンをした後、他の惑星を目指すのですが、その際にクーパーはブラックホールに飲み込まれます。そして、事象の地平線へと向かうわけです。
事象の地平線と言えば、シュタインズ・ゲートでも出てきたアレです。光の速さを超え、過去へメールを送ってしまうアレ。そのイベント・ホライゾンを超えると、時間と空間が逆転します(これはよくある誤解らしいですが、クソ文系の私には詳細がわかりません)。つまり、時間を超越した存在になるということです。ただし、空間は移動できない。
クーパーは、そうして『あらゆる時間におけるマーフィーの部屋』に存在することになります。
そうです。マーフィーの部屋で起きていた奇怪な現象は、事象の地平線を超えた先で、クーパーが時空を超えてメッセージを送ろうとしていたのです。この、始めの部分がラストに繋がる演出は、かなり良く出来ていたと思います。そのために、中盤の人間関係がだるーく感じられてしまう。特に三時間を超える大長編なのでなおさら。
で、冒頭で何故私が『2001年宇宙の旅』や、『ゼロ・グラビティ』と比較してはならないというのは、宇宙空間の描き方ではなく、この『インターステラ―』の一番のキモは「ブラックホールの描き方」にあると思うからです。
まあ、序盤でヤマトや、時間の流れ関連でトップをねらえ!を思い出してしまう私でしたが。
ともかく、本作の核を成すのは何よりもブラックホール。次元を超えるモノ。これでしょう。
人間関係、愛というものの描き方では、インセプションの方が秀逸であったと思います。しかし、ブラックホールという物を主題に置き、ここまでの物語を完成させた事は、本当に見事。ノーランには、この調子で素晴らしいSF映画を撮って欲しいと、心底思う作品でした。
さて、本作は前々から目をつけていた訳ですが、ざっくばらんにそのストーリーを言うと、要するに「ハリウッド版宇宙戦艦ヤマト」という感じ。作物が育たなくなり、食料危機に陥った未来。このままでは人類は餓死。それどころか、大気中の酸素がなくなり人類は窒息死してしまう。それを回避するため、居住可能な惑星を探しにいく……というもの。
宇宙飛行士を主人公とした映画というと、だいたい『2001年宇宙の旅』、そして最近では『ゼロ・グラビティ』が引き合いに出されます。しかし、本作のキモは、それら二作品とは明らかに違います。比べるポイントが、明らかに違うように思えます。
というわけで、私が思ったこの作品のキーポイントはこの二つ。
人間の欲望、野心から生まれる嘘。
事象の地平線を超えるモノ。あるいは、超えた先にあるモノ。
この二つです。
まずは、前者ですが。正直このへんは「なかだるみ」と私が感じた箇所でもあります。
順を追って説明すると、主人公のクーパー(マシュー・マコノヒー)は元NASA所属のパイロット。しかし今では一線を退き、農夫として息子と娘、父と共に暮らしていました。息子は農家を継ぐ予定で、一方娘のマーフィー(ジェシカ・チャステイン)は、宇宙に興味を抱く少女。そんな彼女の部屋で、ある日異変が起きる。ポルターガイスト現象や、重力の異常など。そしてそれらは誰かからのメッセージだと判明する。
メッセージに従い、クーパーとマーフィーはある座標へ。そこにあったのは極秘裏に活動していたNASAだった。
NASAは、人類の危機に対し、二つのプランを計画していた。プランAは、コロニーを建造して移民するというもの。しかし、その為には重力制御装置の開発が必須。重力に関する方程式を解く必要があった。一方のプランBは、突如発生したワームホールの先にある別銀河に人間の受精卵をまき散らすというもの。クーパーは、プランBの為にワームホール探査に行った先遣隊を救出。並びに居住可能な惑星の調査のため、宇宙船のパイロットに選ばれる。
……という感じなのですが。これらの大半は嘘です。
何が嘘かというと、居住可能な惑星を見つけたという先遣隊のマン博士。そして、方程式を解くと言ったブランド教授。二人は欲望の為に嘘をついたのです。マン博士は、救援を求めて嘘の情報を地球に送り、更に手柄を自分の物にするためクーパーたちを騙します。そのくせ「俺は人類の為に戦ってるんだ!」みたいなことを言っちゃう矛盾っぷり。
そしてもう一人、ブランド教授はというと、コロニー建造の為の方程式はとっくに解けていた。というよりも、解けないということが分かっていた。というのも、解くためには「事象の地平線(イベント・ホライゾン)」を観測する必要がある。ブラックホールを探査する必要があった為です。しかし、プランAの嘘をついたのは、「地球にいる人々を見捨てる」ということを言ってしまえば、クーパー達は宇宙へ行かなかっただろう、という理由から。
つまり、どこまでも人の欲望や、存在することへの固執のようなものを描いています。物語の中盤はずっとこれ。
「あれは嘘だ」
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
みたいなやりとりが連続します。
で、超えると一番のキモ。事象の地平線を超えた先が出てきます。
ブラックホールで重力ターンをした後、他の惑星を目指すのですが、その際にクーパーはブラックホールに飲み込まれます。そして、事象の地平線へと向かうわけです。
事象の地平線と言えば、シュタインズ・ゲートでも出てきたアレです。光の速さを超え、過去へメールを送ってしまうアレ。そのイベント・ホライゾンを超えると、時間と空間が逆転します(これはよくある誤解らしいですが、クソ文系の私には詳細がわかりません)。つまり、時間を超越した存在になるということです。ただし、空間は移動できない。
クーパーは、そうして『あらゆる時間におけるマーフィーの部屋』に存在することになります。
そうです。マーフィーの部屋で起きていた奇怪な現象は、事象の地平線を超えた先で、クーパーが時空を超えてメッセージを送ろうとしていたのです。この、始めの部分がラストに繋がる演出は、かなり良く出来ていたと思います。そのために、中盤の人間関係がだるーく感じられてしまう。特に三時間を超える大長編なのでなおさら。
で、冒頭で何故私が『2001年宇宙の旅』や、『ゼロ・グラビティ』と比較してはならないというのは、宇宙空間の描き方ではなく、この『インターステラ―』の一番のキモは「ブラックホールの描き方」にあると思うからです。
まあ、序盤でヤマトや、時間の流れ関連でトップをねらえ!を思い出してしまう私でしたが。
ともかく、本作の核を成すのは何よりもブラックホール。次元を超えるモノ。これでしょう。
人間関係、愛というものの描き方では、インセプションの方が秀逸であったと思います。しかし、ブラックホールという物を主題に置き、ここまでの物語を完成させた事は、本当に見事。ノーランには、この調子で素晴らしいSF映画を撮って欲しいと、心底思う作品でした。
2014年9月21日日曜日
TGS2014パブリックデー二日目レポー ト『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』はこうなる!?
実家から東京への帰還早々、東京ゲームショウ2014に突撃した機乃。
MGSⅤのテーマは、VOICEである。
このことに関しては、矢野氏が勝手にMGS5の内容を予測する、というコーナーがあったのだが、その際に監督が「当てられちゃったかぁ~」という感じで受け応えていた。なのでたぶん合っていると思われる。
しかし、MGS5のテーマがRACE(人種)であることは、既に公式で発表済み。となると、これは裏テーマということになるのだろうか?
ちなみに矢野氏が挙げたVOICEの根拠は、以下のようだ。
① "V"で始まり"E"で終わる。
MGSシリーズのテーマといえば、"GENE","MEME","SCENE","SENSE","PEACE"と全て"E"で終わっている。
友人の誘いで初めて訪れたTGSであったが、やはり目玉は『MGS5』だ。今回私は、TGS2014のパブリックデー二日目、コナミブースのイベントに参戦したので、そちらのレポート。
で、本題はここからだ。最終日最後のイベント、キャストと新川洋司氏、矢野健二氏を交えてのイベントにて、監督からこんな言葉が(正確には矢野氏に受け答えるかたちであったけれども)漏れた。
このことに関しては、矢野氏が勝手にMGS5の内容を予測する、というコーナーがあったのだが、その際に監督が「当てられちゃったかぁ~」という感じで受け応えていた。なのでたぶん合っていると思われる。
しかし、MGS5のテーマがRACE(人種)であることは、既に公式で発表済み。となると、これは裏テーマということになるのだろうか?
ちなみに矢野氏が挙げたVOICEの根拠は、以下のようだ。
① "V"で始まり"E"で終わる。
MGSシリーズのテーマといえば、"GENE","MEME","SCENE","SENSE","PEACE"と全て"E"で終わっている。
そして、今作はナンバリングタイトルだが、5がローマ数字のⅤとなっている。故に、VとEで始まる単語=VOICEという説。
②クワイエットの存在。
今回のTGSでも、特にバディシステムの点において特筆されたクワイエットの存在。監督曰く「敵か味方かわからない」らしいが。
彼女は、なんというか、もう常人離れした身体能力とステルス迷彩を持った女スナイパー。そんなクワイエットは、『言葉を持たない狙撃手』として紹介されている。しかし、彼女は別に声帯が無いとか、そういうわけではないらしいのだ(鼻歌歌ってるし)。
となると、何らかの理由で声、あるいは言葉を失った。そこでもVOICEが関わって来る。
③スネークの台詞が減少。
これはハッキリとは分からないが、監督また大塚氏曰く「スネークの台詞が減った」とのこと。その代わりに一言でいろんな意味を含ませなければならなくなってきたという。そこにもVOICEが絡んでいる?
④メタルギアは常に現代社会の問題をテーマにしていた。
メタルギアシリーズは、確かに小島監督の説教というか、そういった側面が有る。そういうわけで、今回矢野氏が引き合いに出したのは現代社会における声の減少だ。我々は、まさに今このネット社会においてブログやSNSなど、書き言葉に依拠した生活を送っている。動画やラジオなども発展しつつあるが、文字を介したコミュニケーションツールと比べれば、圧倒的に少ないだろう。
現代我々は、そう言った文字にまみれた生活を送ることで、言葉を発する機会を失いつつある。そういう意味での『言葉を持たない存在』ではなかろうか。
そういった点においても、MGS5はVOICEがテーマではないだろうか。
⑤RACEにつながる。
人種を一瞬で分かつ最も簡単な方法は何か。肌の色なども挙げられるが、しかしもっと簡単に、同時に細かく分けられるのは言葉(VOICE)である。人種をテーマにする上で言語は避けて通れぬ道といえる。そう言った点でも、RACEとVOICEはつながる。
以上が矢野氏が挙げたこと(おそらくそうだと思う)である。無論この全てがあっているかは不明だが、小島監督は否定はしなかった。ただ、これ以上の追求も無かった。もちろんVOICEが本当のテーマであるかどうかは、本編が出て見なければ分からない。しかし、この説はあながち間違ってはないのでは、と考えられる。
現在、ハヤカワSF用の原稿で言葉をテーマに作品を書いている私にすれば、実にタイムリーな話題だ。現代社会において『言葉』という存在は高度化し、しかし話し言葉というものは希薄になっているのかもしれない。ハーモニーで伊藤計劃が意識の外部化を図ったように、現代我々は多くのコミュニケーションを様々な『機械』という外部装置を媒介としている。それは、まるで身体を機械化していくスネークたちのよう。
MGSは一貫して戦争を作品の主軸においてきたわけだが、そもそもの戦争の根源とは何であるか。宗教、民族、利益……と、様々な要因が挙げられるが、その最たるものとしてやはり人種が挙げられるだろう。人は、個人あるいは集団がもつ価値観というものに依拠した文化を形作り、そこから言葉というものへ発展していく。それらは各々差異を孕むもので、結果的に宗教や民族対立、あるいは経済的な対立の根源となるのは明白である。そんな戦争の根源たる人種、言葉がMGS5のテーマなのでは。
では、復讐のために悪へと堕ちたスネークの存在は?
監督曰く、スネークはもちろん暗黒面に落ちる、といっても進んで悪の道へ堕ちたわけではない。復讐の為、仲間を守るため、己が信ずる正義の為に殺意を持った結果、それが悪意へと変貌した。その根源は何か? 報復、復讐といったもの。その連鎖が現代も続く戦争と成る。そして、その根源こそ人種――さらにその根源がVOICEだ。
と、急にこんな事を書きだしたのは、VOICEというテーマが現在鋭意執筆中の公募作と重なったからである。
『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』、一ファンとして発売を楽しみに待つとします。
2014年9月7日日曜日
「AKIRA/アキラ」 第三回『LUCY/ルーシー』
リュック・ベッソンが送る。スカーレット・ヨハンソン、モーガン・フリーマン、あとよくわかんないマフィアだの警察だの、千原ジュニア似の中国人といったキャストによる、よくわかんない阿呆設定映画。
と、予告を見た方はわかると思いますが(一応下にご用意)、脳の機能をフルに使えるようになった女性「ルーシー」の活躍を描く作品。
なんというか、まるで攻○機動隊とかア○ラのようですが、そのへんの説明は一切無いので、よくわかんない。
私が思うに、こういう阿呆みたいな設定の作品というのは、二つに分けられます。一つは、
と、予告を見た方はわかると思いますが(一応下にご用意)、脳の機能をフルに使えるようになった女性「ルーシー」の活躍を描く作品。
なのですが、なんというか、能力を得る過程がですねぇ……はい。
というわけで、ざっくり説明。
舞台は、拳銃持って病院に押し入っても何も言われないのに、死にかけの末期がん患者を殺したら咎められる国、中国。あとフランスとか。
主人公のルーシーは、中国語も話せないのに中国に住んでるよくわからない女性。どうやら頭が足りてない。そんな彼女はある日、一週間前に知り合ったばかりの男に運び屋の仕事を頼まれる。いやいや引き受けたら、あれよあれよという間に今度は中国マフィアの運び屋に。どうにも彼らはルーシーの腹部に新種の麻薬を入れたらしい。で、ルーシー他、腹部に薬の袋を入れられた者達は、各々の母国に戻ることになった。……なったんだが、ルーシーだけは何故だか中国人にレイプされかけて、そのせいで腹の中で麻薬が溢れてハイになっちゃった!
そしたら、なぜなぜどうして? 脳の機能が20%以上使えるように! 一瞬で中国語も理解するし、脳の機能に関する論文を数分で読破。教授(モーガン・フリーマン)に直接電話したり、電波操って謎ハッキングを始める始末。あのルーシーちゃんが、この世の全てを理解できるように!
そんなルーシーは、最終的に脳の機能を100%使えるようになりました。でも、その体は長く持ちません。よって、大学のコンピュータを元に新しくスパコンを作って、USBメモリに全ての知識をぶち込みましたとさ。やったね! これで人類は、進化へとまた進みました!
いや、次世代コンピュータとはいえ、脳データ全部が外部記憶装置に入るのかよ!?
私が思うに、こういう阿呆みたいな設定の作品というのは、二つに分けられます。一つは、
阿呆な設定へのツッコミを黙らせるほどの格好良さ、熱い物語、演出などなどを持った『素晴らしく阿呆』な作品。
で、二つ目が
阿呆な設定をそのまんま見せ続けて、視聴者を(ある意味で)黙らせる作品。
の両極端だと思ってます。
前者は、私が思うところでは『男たちの挽歌シリーズ』とか、『パシフィック・リム』とか。設定無茶苦茶だけど、カッコイイからどうでもいいよな! って言える作品。
『LUCY/ルーシー』は、少なくとも前者にはなれなかった気がします。アクションが派手なわけでもなく、斬新なわけでもなく。ちょいと指振ったら敵がすっ飛んだりなんなりする程度。カーアクションシーンも、TAXIやトランスポーターほどの派手さはありません。
期待してたのと違う、という意見があるのは、確かに言えてますね。可もなく不可もなく。
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