言わずと知れた(いろんな意味で)アイドルアニメ、ラブライブ。その劇場版が公開されたということで、見てきた。今回はそのレビュー。
さて、ラブライブといえば、廃校の危機を救うために女学生達がアイドルグループを結成する物語。劇場盤では、スクールアイドルの大会「「ラブライブ」に優勝した後の、主人公たちμ'sの活動と、その解散までを描いている。
で、まあ、物凄くざっくりと言ってしまえばこの映画、アニメとそれ以前の企画(要するにプロモーションビデオ)のイイトコどりをしたものだ。つまるところ、
アニメで受けた展開に、評価の高いプロモーションビデオを入れ、それらに合わせてストーリーらしきものをあてはめた。
という感じだ。
ストーリーらしきもの、と敢えて刺のある言い方をしたのは、無論それが微妙であったからだ。序盤μ'sはよく分からんうちに撮影があるとか何とかでNYらしき場所に飛ぶ。で、そこで色々あるのだが……正直、『アニメだから』と言って目を瞑っても、何とも承服しがたいシーンが幾つか見受けられた。話の内容が何だか繋がってるんだか繋がってないんだか。あれ、あそこであった話ってどこに行っちゃったの? という感じ。アニメで受けたシーンの焼きましを、無理やりねじ込んだ結果がこれなのだろうか。まあ、終始海未ちゃん可愛かったし、風呂あがり真姫ちゃんエロかったし、寝ぼけたエリーチカ可愛かったからいんだけど。(ソルゲトリオが好きなだけ)
しかし、μ'sがNYから日本に戻ってくると、展開は一変する。その無理矢理な話の作りは一挙に消え(いや、そこまででもないかな。でも、まだ見ていられる)、まあ相変わらず話の内容は穂乃果の無茶と皆の協力でなんとかなる、というものだが。しかし、ここでようやっとまともな話に変わる。
最後に流れたμ'sメンバーの名前の込められた曲は良かったと思うし、相変わらずライブシーンはよく出来ている。イイトコどりをした結果、確かにファンは嬉しいものになっただろう。堅実な作りだ。だが、批判する気持ちも分からんでもない。特に、後半がμ's解散とスクールアイドル存続の間で揺れるという、比較的まともな話の作りだったため、ただファンサービスに走りすぎた前半NY編の必要性があまり感じられなかった。高山みなみ演じる謎の女性シンガー(これは未来の穂乃果だろうか)が出てくる以外、あまりストーリーラインに関係が無い気がするのだ……。
ともかく、堅実な作りのファンサービスムービーだった。公式ママライブや、穂乃果パパのラブライブレードとかは正直笑えた。あと、真姫ちゃん巻き戻ってた。
言うまでもなくラブライバー、またはラブライ部員諸兄は見に行っただろうと思う。見いていないのなら、まあ、好きなキャラが可愛いのを身に行くために劇場に行くといいだろう。
2015年6月16日火曜日
2015年5月30日土曜日
純粋な”意識”は次の場所へ向かうか?『チャッピー(Chappie)』
SF映画としては、今年結構期待していた作品。第9地区や、エリジウムで知られるニール・ブロムカンプ監督の最新作。
この作品、公開前にソニー・ピクチャーズが一部編集して公開するとか、監督が「そんなの聞いてねえよ」とか言って、一悶着あった。期待していた分、私も結構ショックだった。
が、まあ編集部分はそこまで気にならなかった。むしろ気になる点は他に多くあったわけだが……。
ともかく、昨今ファミリー、カップル向けに映画を無理やり宣伝している感じがあるので、おそらくチャッピーもそうなったんじゃないか、とか考えている。
さて、本作のざっくりしたあらすじは、というと、意識を持ったAIチャッピーの成長物語である。
舞台は南アフリカのヨハネスブルグ。(そういや第9地区もヨハネスブルグが舞台だった)治安維持の為に警察はAIを搭載した人型ロボットを投入。犯罪の発生率は低下していた……。そんな中、ドロイドの開発者であるディオンは、意識を持った完全な人工知能を開発。それをドロイドに搭載、実験を申し出る。だが、その実験は却下されてしまう。
諦められないディオンは、破棄処分が確定されたドロイド(チャッピー)にAIのデータを転送しようとする。だが、そんな中、犯罪組織にディオンは誘拐されてしまう……。
子供のようなAI、チャッピー。ヨハネスブルグの過酷な社会で成長する『少年(チャッピー)』の半生を描いた作品。
と、言ったところだろうか。
詳しくは本編を見て頂きたいところだが、しかし私は、この作品に「違和感」を感じてしまった。
その違和感の正体というのは、『意識』というものの捉え方だ。
愚かな、嘘つきの人間と、純粋なAI。その対比こそがこの作品の本質であり、まあ、それがテーマであろうことは簡単に理解出来る。実際、その点ではよく出来ていると感じる。リアルなドキュメンタリー調から始まる物語は、人間の本質に迫っているだろう。
だが、そのようなリアルさを描いているがゆえに、AIが持つ意識という物に足を突っ込んだ途端、急に違和感が生じたわけである。
物語中盤、チャッピーは自らが破棄処分の確定された個体で、バッテリーが限界に近づいていると知る。彼は死を回避するため、自身の『意識』をデータとして転送することを思いつく。そして、見事に意識という物を見つけ出すのだ。
だが、考えてみて欲しい。チャッピーに意識を生じさせたのは、他でもないディオンだ。彼は、そのようなプログラムを作り、チャッピーにそれをインストールしたはずなのだ。しかしながら、彼は成長し、自我を持ったチャッピーを観て「こんなことになるとは思わなかったんだ」とか何とかのたまうのである。
いや、待ってくれ。プログラムしたのお前だろ? なんでお前、意識なんてわけわからん物を、理解できぬままプログラムできたの?
いや、わけのわからんまま放ったらかすのは、まあ訳の分からんまま生じてしまった、セレンディピティのようなものだと考えられる。だが、それは意識としてデータとして捉えられるものだと、後々に判明する。しかも、それをアンドロイドに転送することまで可能にしてしまう。
SF的な設定。大いに結構。だが、序盤のリアル志向な始まり方のせいで、この曖昧な設定が浮いて見えてしまう。それが違和感の正体だろう。
と、まあ。相変わらずメカニックは格好良かった。問題は、余計な所に手を伸ばしてしまったことのような気がする。
あと、「テンション」って書かれたオレンジ色のズボンがすっごい気になった。あれ何処に売ってるんだ。
2015年4月10日金曜日
芸術家になれない者が批評家になる。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
かつてヒーロー物の映画で一斉を風靡した、落ち目の俳優。リーガン・トムソン(マイケル・キートン)。そんな彼が今一度羽ばたく為、舞台俳優としてブロードウェイに立つ。
……というのが、本作のざっくりとしたあらすじ。先程、某◯ahoo!映画のレビューを見てきたが、まあ酷評されたり賞賛されたり。確かに見ていて、人を選ぶ映画だなぁ、とは感じた。
もしコレが、元ヒーロー映画の主役が妄想したり云々して再び舞台に返り咲くサクセスストーリーなら、きっとそういう人も黙って首を縦に振っただろう。だが、これそういう映画じゃない。芸術家になろうとする主人公が、ずーっと苦悩し続ける映画だ。だから、きっと想像していた面白さとは違ったんだろう。
それで、私がコレを見て思ったのは、
エンタメ映画批判に見せかけた、芸術()作品批判。
というもの。
劇中でマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が言うセリフの中に、「芸術家になれない者が批評家になる」みたいなセリフがあった。調べてみたところ、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言葉らしい。おそらくこの映画の言いたい事は、これなんじゃないのか、と私は思った。
劇中では、エンタメ映画への露骨な批判をするシーンが登場する。ス◯イダーマンとか、アイ◯ンマンとか、ト◯ンスフォーマーみたいなのがチープな感じで踊っていたりする。これだけ見たら、まああからさまに娯楽映画を批判しているのだろうとは思う。だが、リーガンが役者として返り咲いた過程を見ると、どうにもそのようには思えないのだ。
この映画は、シームレスに映像が流れ続ける。リーガンの妄想も、現実も、全て境界無く続く。だから視聴者は、妄想と現実の判断がかなり曖昧になってくる。むろん、それが現実(リアル)ではなく虚構(フィクション)であると仄めかす描写はある。だが、ほとんどそれは曖昧だ。彼が超能力を使うシーンがあるが、それが妄想だと根拠付けする描写はない。
妄想の中で、彼の中の『過去の栄光』=『バードマン』は、彼に囁き続ける。「お前はバードマンだ」と。これは、おそらく芸術家紛いの役者崩れになろうとしているリーガンへの皮肉だと思われる。
バードマンの囁きに、彼は反抗し続ける。だが、やがて彼はソレを受け入れ、自分が求めているのは血や暴力、爆発なのだと知る。
それで、最終的にリーガンが如何にして役者として返り咲いたかと思えば、それは『スーパーリアリズム』とも言うべきものだった。すなわち、自殺シーンを実銃でやって、他の俳優や観客にも『本物の血』を浴びせるというものだ。そんな極度の現実性こそが芸術だ、として彼は再び役者として成功する。
だが、待ってくれ。此処で言う『血』と、俗っぽいエンタメが見せる『爆発』とかって、なんか似たようなもんじゃないのか? スーパーリアリズムなんて言葉で取り繕ってはいるが、要はその場で起きた流血沙汰に興奮しているだけではないか。それでは、結局双方の本質は変わらないじゃ?
映画は、最後にリーガンが入院するシーンで終わる。彼が放った銃弾は、自らの鼻を吹き飛ばした。奇跡的に一命は取り留めたものの、鼻は新しい物に付け替えることに。この時彼がしている包帯が、何ともバードマンのマスクのよう。
そうしてラストシーンで、彼は妄想に浸りながら、病室の窓から飛び出す。それを見つけた娘のサム(エマ・ストーン)が、最後に空を見てニッコリと笑う。それで、この映画は終りだ。
さて、この笑顔の意味は何だったろう。空を見ていた、ということは、やはりリーガンには妄想では無く本当に超能力があった、ということだろうか。だとすれば、それを見てニッコリとした娘の姿は、さながらスーパーヒーローものという実に俗っぽい映画をみて楽しんでいる観客のようにも思える。
で、この映画のタイトル『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とは何だったのだろうか。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、リーガンが誤って実銃を使った→それによるスーパーリアリズムの確立。という奇跡を表すタイムズ紙の見出しだ。つまり、このカッコの中の文句は、結局リーガンが流血沙汰で客を興奮させることを言っているんじゃないだろうか。で、バードマンというのは、同じく俗っぽいエンタメ映画のこと。
リーガンに残された、役者として再び返り咲く方法。それこそが、”バードマン”あるいは”無知がもたらす予期せぬ奇跡”だったのでは。
と、ちょっと考察してみたが、よくわからん。
まあ、人を選ぶ映画だなぁとは思いました。
……というのが、本作のざっくりとしたあらすじ。先程、某◯ahoo!映画のレビューを見てきたが、まあ酷評されたり賞賛されたり。確かに見ていて、人を選ぶ映画だなぁ、とは感じた。
もしコレが、元ヒーロー映画の主役が妄想したり云々して再び舞台に返り咲くサクセスストーリーなら、きっとそういう人も黙って首を縦に振っただろう。だが、これそういう映画じゃない。芸術家になろうとする主人公が、ずーっと苦悩し続ける映画だ。だから、きっと想像していた面白さとは違ったんだろう。
それで、私がコレを見て思ったのは、
エンタメ映画批判に見せかけた、芸術()作品批判。
というもの。
劇中でマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が言うセリフの中に、「芸術家になれない者が批評家になる」みたいなセリフがあった。調べてみたところ、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言葉らしい。おそらくこの映画の言いたい事は、これなんじゃないのか、と私は思った。
劇中では、エンタメ映画への露骨な批判をするシーンが登場する。ス◯イダーマンとか、アイ◯ンマンとか、ト◯ンスフォーマーみたいなのがチープな感じで踊っていたりする。これだけ見たら、まああからさまに娯楽映画を批判しているのだろうとは思う。だが、リーガンが役者として返り咲いた過程を見ると、どうにもそのようには思えないのだ。
この映画は、シームレスに映像が流れ続ける。リーガンの妄想も、現実も、全て境界無く続く。だから視聴者は、妄想と現実の判断がかなり曖昧になってくる。むろん、それが現実(リアル)ではなく虚構(フィクション)であると仄めかす描写はある。だが、ほとんどそれは曖昧だ。彼が超能力を使うシーンがあるが、それが妄想だと根拠付けする描写はない。
妄想の中で、彼の中の『過去の栄光』=『バードマン』は、彼に囁き続ける。「お前はバードマンだ」と。これは、おそらく芸術家紛いの役者崩れになろうとしているリーガンへの皮肉だと思われる。
バードマンの囁きに、彼は反抗し続ける。だが、やがて彼はソレを受け入れ、自分が求めているのは血や暴力、爆発なのだと知る。
それで、最終的にリーガンが如何にして役者として返り咲いたかと思えば、それは『スーパーリアリズム』とも言うべきものだった。すなわち、自殺シーンを実銃でやって、他の俳優や観客にも『本物の血』を浴びせるというものだ。そんな極度の現実性こそが芸術だ、として彼は再び役者として成功する。
だが、待ってくれ。此処で言う『血』と、俗っぽいエンタメが見せる『爆発』とかって、なんか似たようなもんじゃないのか? スーパーリアリズムなんて言葉で取り繕ってはいるが、要はその場で起きた流血沙汰に興奮しているだけではないか。それでは、結局双方の本質は変わらないじゃ?
映画は、最後にリーガンが入院するシーンで終わる。彼が放った銃弾は、自らの鼻を吹き飛ばした。奇跡的に一命は取り留めたものの、鼻は新しい物に付け替えることに。この時彼がしている包帯が、何ともバードマンのマスクのよう。
そうしてラストシーンで、彼は妄想に浸りながら、病室の窓から飛び出す。それを見つけた娘のサム(エマ・ストーン)が、最後に空を見てニッコリと笑う。それで、この映画は終りだ。
さて、この笑顔の意味は何だったろう。空を見ていた、ということは、やはりリーガンには妄想では無く本当に超能力があった、ということだろうか。だとすれば、それを見てニッコリとした娘の姿は、さながらスーパーヒーローものという実に俗っぽい映画をみて楽しんでいる観客のようにも思える。
で、この映画のタイトル『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とは何だったのだろうか。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、リーガンが誤って実銃を使った→それによるスーパーリアリズムの確立。という奇跡を表すタイムズ紙の見出しだ。つまり、このカッコの中の文句は、結局リーガンが流血沙汰で客を興奮させることを言っているんじゃないだろうか。で、バードマンというのは、同じく俗っぽいエンタメ映画のこと。
リーガンに残された、役者として再び返り咲く方法。それこそが、”バードマン”あるいは”無知がもたらす予期せぬ奇跡”だったのでは。
と、ちょっと考察してみたが、よくわからん。
まあ、人を選ぶ映画だなぁとは思いました。
2015年2月23日月曜日
番犬であり続けようとした男。『アメリカンスナイパー(American Sniper)』
予告編からもう痺れて、絶対に見に行こうと思っていた本作。各所で物議を醸しているようだが、取り敢えず私なりの感想を書き出してみようと思う。ネタバレ有りです。
さて、本作は、イラク戦争で160人以上を殺し、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵からは「悪魔」と恐れられた狙撃手、クリス・カイルの物語。戦地では「伝説(Legend)」と呼ばれた彼が、日常生活と戦場との間で苦悩するヒューマンドラマ。
と、こういうネタはベトナム戦争の頃から随分とやり尽くされてる。有名ドコロだとランボー。私の好きな作品だと、リーサル・ウェポンのリッグスもベトナム帰還兵で、自殺志願者だった。リッグスの場合、相棒マータフとその家族との触れ合いによって、徐々に心を取り戻していく。同じイラク戦争だと、ハート・ロッカーなどもあげられるだろう。ハート・ロッカーの場合、結局日常に馴染めなかった主人公が再び戦地に戻るという皮肉な終り方であったが。
さて、いずれにしてもこういうネタは結構ある。そして、そのたびにアメリカ万歳な雰囲気があるだのなんだのと言われる。だが、私が思うにクリス・カイル(あくまでも劇中の彼。自叙伝は読んでいない)は、『戦場に取り憑かれた男』というよりは、『番犬であろうとした男』というように思われる。詳しくは後述する。
こういう話でよくあるのは、結局彼の居場所は戦いの中にしか無い、というもの。実質カイルは、四度イラクへ派兵された。作中でも、祖国アメリカへ戻るたびに『戦場の感覚』というものが抜けず、苦悩する場面が多かった。だが、最終的にカイルは、退役軍人をケアするという形で、徐々に心を取り戻していく。その後、彼は助けようとした元軍人に殺されてこの世を去るのだが。
私が思ったのは、彼は戦場が好きで戦争に行ったのではないのでは、ということだ。ハート・ロッカーの場合は、戦場にしか居場所がないという終り方で閉められたが、だが本作は違う。それには、冒頭部でカイルの父が言った言葉がキーワードになってくると思われる。それこそが以下の三つ、羊、狼、番犬だ。(英語だとSheapdog:牧羊犬と言っていたような気もするが、定かではない)
「羊」というのは、御存知の通り憐れな子羊ということ。「狼」という悪に危害を加えられても抵抗できない憐れな存在だ。だが、そんな羊を狼から守る、類まれなる存在がいる。それこそが「番犬」だ。冒頭部、虐められていたカイルの弟を「羊」として、いじめっ子が「狼」。そして、いじめっ子を殴り倒したカイルが「番犬」として喩えられた。そしてカイルの父は、子供たちを「番犬」に育て上げるつもりでいたわけだ。
彼は、戦場に取り憑かれていたわけでもない。戦場にしか居場所が無かったわけでもない。ただ、父がかくあるべきと示した人間であり続けようとしたのではないだろうか。祖国国民と、愛する家族という「羊」を守る「番犬」であろうとし続けたのではないだろうか。現に作中何度か、カイルは家族を守るために戦場に行くのだ、と口にしていた。
故に私が思ったのは、これはアメリカ万歳な戦争映画でも、PTSDに陥った男の苦悩を描いたのでもない。純粋に「番犬」であろうとした、不器用な男の半生ではないだろうか、ということ。だからこそ彼は、戦場で仲間を救うことではなく、戦場より帰還し苦悩している仲間を救うことに意義を見いだせたのではなかろうか。
そして本作は、実際の映像によるカイルの葬儀が流れたのち、無音のエンドロールが流れる。さて、このエンドロールは何を示していたのだろうか。ゆっくりと作品の意義を考える時間だろうか(その割に途中で劇場出てくやつめちゃめちゃいたぞ)。それとも、カイルの死を示す静寂であったのだろうか。
戦争映画、というよりもヒューマンドラマ。個人的には見ていて楽しかった。コテコテの戦争映画より、こういう男の話が好きだ。
さて、本作は、イラク戦争で160人以上を殺し、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵からは「悪魔」と恐れられた狙撃手、クリス・カイルの物語。戦地では「伝説(Legend)」と呼ばれた彼が、日常生活と戦場との間で苦悩するヒューマンドラマ。
と、こういうネタはベトナム戦争の頃から随分とやり尽くされてる。有名ドコロだとランボー。私の好きな作品だと、リーサル・ウェポンのリッグスもベトナム帰還兵で、自殺志願者だった。リッグスの場合、相棒マータフとその家族との触れ合いによって、徐々に心を取り戻していく。同じイラク戦争だと、ハート・ロッカーなどもあげられるだろう。ハート・ロッカーの場合、結局日常に馴染めなかった主人公が再び戦地に戻るという皮肉な終り方であったが。
さて、いずれにしてもこういうネタは結構ある。そして、そのたびにアメリカ万歳な雰囲気があるだのなんだのと言われる。だが、私が思うにクリス・カイル(あくまでも劇中の彼。自叙伝は読んでいない)は、『戦場に取り憑かれた男』というよりは、『番犬であろうとした男』というように思われる。詳しくは後述する。
こういう話でよくあるのは、結局彼の居場所は戦いの中にしか無い、というもの。実質カイルは、四度イラクへ派兵された。作中でも、祖国アメリカへ戻るたびに『戦場の感覚』というものが抜けず、苦悩する場面が多かった。だが、最終的にカイルは、退役軍人をケアするという形で、徐々に心を取り戻していく。その後、彼は助けようとした元軍人に殺されてこの世を去るのだが。
私が思ったのは、彼は戦場が好きで戦争に行ったのではないのでは、ということだ。ハート・ロッカーの場合は、戦場にしか居場所がないという終り方で閉められたが、だが本作は違う。それには、冒頭部でカイルの父が言った言葉がキーワードになってくると思われる。それこそが以下の三つ、羊、狼、番犬だ。(英語だとSheapdog:牧羊犬と言っていたような気もするが、定かではない)
「羊」というのは、御存知の通り憐れな子羊ということ。「狼」という悪に危害を加えられても抵抗できない憐れな存在だ。だが、そんな羊を狼から守る、類まれなる存在がいる。それこそが「番犬」だ。冒頭部、虐められていたカイルの弟を「羊」として、いじめっ子が「狼」。そして、いじめっ子を殴り倒したカイルが「番犬」として喩えられた。そしてカイルの父は、子供たちを「番犬」に育て上げるつもりでいたわけだ。
彼は、戦場に取り憑かれていたわけでもない。戦場にしか居場所が無かったわけでもない。ただ、父がかくあるべきと示した人間であり続けようとしたのではないだろうか。祖国国民と、愛する家族という「羊」を守る「番犬」であろうとし続けたのではないだろうか。現に作中何度か、カイルは家族を守るために戦場に行くのだ、と口にしていた。
故に私が思ったのは、これはアメリカ万歳な戦争映画でも、PTSDに陥った男の苦悩を描いたのでもない。純粋に「番犬」であろうとした、不器用な男の半生ではないだろうか、ということ。だからこそ彼は、戦場で仲間を救うことではなく、戦場より帰還し苦悩している仲間を救うことに意義を見いだせたのではなかろうか。
そして本作は、実際の映像によるカイルの葬儀が流れたのち、無音のエンドロールが流れる。さて、このエンドロールは何を示していたのだろうか。ゆっくりと作品の意義を考える時間だろうか(その割に途中で劇場出てくやつめちゃめちゃいたぞ)。それとも、カイルの死を示す静寂であったのだろうか。
戦争映画、というよりもヒューマンドラマ。個人的には見ていて楽しかった。コテコテの戦争映画より、こういう男の話が好きだ。
2015年1月19日月曜日
最も恐ろしいのは、社会に隷属する人間か。『劇場版PSYCHO-PASS サイコパス』
昨日、サイコパスだけは見る気が起きないと言った私。まあ、二期があまりにも微妙だったので、期待できなかったからなのだが。その上、なにやらサイバーパンク好きなオッサンどもをターゲットに当ててたのに、劇場には腐女子ばっかだと聞いたので(現に私がパトレイバーを初日に見にいった時はそんな感じだった)、じゃあ批判するためにも見に行ってやろう。と、勢い任せに見てきた。
で、見てきたのだが……。
すまん、ふつうにおもしろかった。
というか、昨日見たアップルシードより良かったかもしれない。映像の質はさておくが。
ところで、私がサイコパス二期が楽しめなかった最大の理由は、求めていたものと違うものを突きつけられたからだ。聡明な視聴者諸兄もそうであったはずだ。一期を視聴し、二期が始まると聞いて何を期待した? 咬噛とギノさんのホモホモしい展開? 違う。六合塚と唐之杜のレズセックス? 気持ちは分かるが、違う。
二期に何を求めていたかと言えば、それは後日談だ。咬噛が消え、常守が先輩になった公安のアフターストーリーのはずだ。それがなんだかよくわからん、ストーカーのマザコンひろしの話にすげ変わっている。そりゃ、楽しめなくて当然だった気がする。
劇場版は、そういう意味で私の見たかった三点と、もう一つ興味深い点を押さえてくれている。その三つというのが、まず前述の後日談。そして、ビバップばりの格闘アクション。劇場版では、そこにサイボーグ要素まで加わって、これでもかというアクションを見せてくれた。三つ目が、SF特有のガジェットの見せ場だ。
では、もう一つの興味深い点とは何か。それは、昨今の国内SFで流行の、いわゆる管理社会、管理都市ものの疑問点に立ち向かっていることだ。その疑問点が何かというと、
発展途上国で管理社会は成立するか、
というものだ。
管理社会というのを、私は現代の民主主義政府社会の先にあるものだと考えている。いや、元を正せばそのようなディストピア小説は、社会主義の現実批判に端を発する訳だが、しかし社会主義も資本主義社会へのカウンター的なところがあるから、まあよしとしよう。
話が逸れたが、問題の「疑問点」というのは、発展途上国すなわち紛争当事国で管理社会は成立するかということだ。人間がシステムに飼い慣らされる社会というのは、その前段階が必要なはずだ。つまり、民衆が政府の下に位置する社会。その政府が、民衆をシステムによって管理するかどうかが、管理社会であるかどうかというところだろう。だが、そんな民主主義も政府社会もへったくれもない紛争国では、そのようなシステムが運営可能であろうか?
私はこの疑問点について、伊藤計劃のハーモニーについて考える際、ぶち当たった。というのも、私が以前考えたハーモニーのアフターストーリー、『〈harmony After/〉』にて、「意識消失は、紛争当事国でも完全に発生しうるのか」という疑問の中で浮上した。世界各国の発展途上国すべてが、日本のようにWatchMeを導入している訳ではない。ならば、どこかで意識が存在する人間が現れるはず。という、疑問だ。
劇場版サイコパスでは、アジアの紛争国にシビュラシステムを輸出するという形で、この疑問への解を導き出している。すなわち、システムが開発独裁を意図的に発生させることで、国家を管理社会が実現可能なレベルにまで発展させるということだ。そうして、社会が一定レベルまで成長したところで、システムは独裁に関わった者を一掃する。
で、そんなことを平然とやってのけるシステムの手駒として、霜月のような存在が出てくる。空気を読め、という一言でシステムが発展途上の社会を取り込んでいく様子を容認している。一方で、やはりそれらに懐疑的なのが、咬噛や常守だ。咬噛は、第二の槙島になるかと言われたが、しかしそうはならなかった。なりかけていたが。
物語は、シビュラが導入された件の紛争当事国で、シビュラにあらがう咬噛。そして、彼を追う常守という形で進んでいく。やがて咬噛を見つけた常守は、成り行きで咬噛の味方につく。そこでシビュラに従いながらも、圧倒的な武力を行使する政府軍が描かれる。
とまあ、そんな「反政府弾圧怖い」という演出があるわけだが、しかし最後にそれらをも容易くぶっ殺していく日本警察こそが、一番恐ろしい。その対比というか、演出は、是非見てもらいたいところだ。
というわけで、遅ればせながらサイコパスを見てきた。個人的に、アクションもりもりのSFガジェットもりだくさんで嬉しかった。ここまでおもしろいと、逆に二期って何だったんだと思えてくる。
きっと私と同じく、二期がつまらなかったから、敬遠しているSF好きがいるはず。少なくとも、二期よりは格段におもしろいかったと私は感じた。
とはいえ一つ文句だけを言わせてもらうとしたら、あんまり日本の声優さんに英語で演技させないほうがいいんじゃないかなぁ……というところだ。
で、見てきたのだが……。
すまん、ふつうにおもしろかった。
というか、昨日見たアップルシードより良かったかもしれない。映像の質はさておくが。
ところで、私がサイコパス二期が楽しめなかった最大の理由は、求めていたものと違うものを突きつけられたからだ。聡明な視聴者諸兄もそうであったはずだ。一期を視聴し、二期が始まると聞いて何を期待した? 咬噛とギノさんのホモホモしい展開? 違う。六合塚と唐之杜のレズセックス? 気持ちは分かるが、違う。
二期に何を求めていたかと言えば、それは後日談だ。咬噛が消え、常守が先輩になった公安のアフターストーリーのはずだ。それがなんだかよくわからん、ストーカーのマザコンひろしの話にすげ変わっている。そりゃ、楽しめなくて当然だった気がする。
劇場版は、そういう意味で私の見たかった三点と、もう一つ興味深い点を押さえてくれている。その三つというのが、まず前述の後日談。そして、ビバップばりの格闘アクション。劇場版では、そこにサイボーグ要素まで加わって、これでもかというアクションを見せてくれた。三つ目が、SF特有のガジェットの見せ場だ。
では、もう一つの興味深い点とは何か。それは、昨今の国内SFで流行の、いわゆる管理社会、管理都市ものの疑問点に立ち向かっていることだ。その疑問点が何かというと、
発展途上国で管理社会は成立するか、
というものだ。
管理社会というのを、私は現代の民主主義政府社会の先にあるものだと考えている。いや、元を正せばそのようなディストピア小説は、社会主義の現実批判に端を発する訳だが、しかし社会主義も資本主義社会へのカウンター的なところがあるから、まあよしとしよう。
話が逸れたが、問題の「疑問点」というのは、発展途上国すなわち紛争当事国で管理社会は成立するかということだ。人間がシステムに飼い慣らされる社会というのは、その前段階が必要なはずだ。つまり、民衆が政府の下に位置する社会。その政府が、民衆をシステムによって管理するかどうかが、管理社会であるかどうかというところだろう。だが、そんな民主主義も政府社会もへったくれもない紛争国では、そのようなシステムが運営可能であろうか?
私はこの疑問点について、伊藤計劃のハーモニーについて考える際、ぶち当たった。というのも、私が以前考えたハーモニーのアフターストーリー、『〈harmony After/〉』にて、「意識消失は、紛争当事国でも完全に発生しうるのか」という疑問の中で浮上した。世界各国の発展途上国すべてが、日本のようにWatchMeを導入している訳ではない。ならば、どこかで意識が存在する人間が現れるはず。という、疑問だ。
劇場版サイコパスでは、アジアの紛争国にシビュラシステムを輸出するという形で、この疑問への解を導き出している。すなわち、システムが開発独裁を意図的に発生させることで、国家を管理社会が実現可能なレベルにまで発展させるということだ。そうして、社会が一定レベルまで成長したところで、システムは独裁に関わった者を一掃する。
で、そんなことを平然とやってのけるシステムの手駒として、霜月のような存在が出てくる。空気を読め、という一言でシステムが発展途上の社会を取り込んでいく様子を容認している。一方で、やはりそれらに懐疑的なのが、咬噛や常守だ。咬噛は、第二の槙島になるかと言われたが、しかしそうはならなかった。なりかけていたが。
物語は、シビュラが導入された件の紛争当事国で、シビュラにあらがう咬噛。そして、彼を追う常守という形で進んでいく。やがて咬噛を見つけた常守は、成り行きで咬噛の味方につく。そこでシビュラに従いながらも、圧倒的な武力を行使する政府軍が描かれる。
とまあ、そんな「反政府弾圧怖い」という演出があるわけだが、しかし最後にそれらをも容易くぶっ殺していく日本警察こそが、一番恐ろしい。その対比というか、演出は、是非見てもらいたいところだ。
というわけで、遅ればせながらサイコパスを見てきた。個人的に、アクションもりもりのSFガジェットもりだくさんで嬉しかった。ここまでおもしろいと、逆に二期って何だったんだと思えてくる。
きっと私と同じく、二期がつまらなかったから、敬遠しているSF好きがいるはず。少なくとも、二期よりは格段におもしろいかったと私は感じた。
とはいえ一つ文句だけを言わせてもらうとしたら、あんまり日本の声優さんに英語で演技させないほうがいいんじゃないかなぁ……というところだ。
2015年1月18日日曜日
サイボーグ萌え&巨大兵器萌え『アップルシード アルファ』
今年はSFアニメが目白押し。アップルシードに始まり、伊藤計劃作品三つに、攻殻機動隊……(サイコパスはあんまり見る気がおきない)。そんなわけで一発目、アップルシードαを見てきた。
本作は、アップルシード、エクスマキナなどの前日譚。ブリアレオスとデュナンがオリュンポスでESWAT隊員になる前の物語。つまり、他の作品を見てなくても安心、ということ。SFアニメの取っ掛かりとして、アクション満載の本作を見てみるのもいいかもしれない。
本作の何よりものウリは、美麗なCGだろう。エクスマキナの時と比べて、かなりよくなっている。ざっくり言ってしまうとFFみたいなCGになっているわけだが。それにしても、日本もCGイケるじゃないか! と思えてしまう出来。
で、そのような美麗なCGで描かれるのは、世界大戦によって荒廃した未来。そして、そこに生きるサイボーグたち。諏訪部レオス(勝手に命名)始め、玄田哲章ボイスで喋る憎めない悪役的な感じのサイボーグ。また、名塚佳織ボイスで喋る黒くてつやつやで、ケツのエロいサイボーグとか。
しかしどちらかといえば、これらのメカニック、アメコミ映画で出てきそうな感じのデザインだ。まあ、アームズフォートみたいな巨大兵器が出てきて、それの排熱シーンがカッコ良かったからいいのだが。
総評
一言で言ってしまえば、そこそこ。綺麗な映像でそれなりのSFアクションをやってみた程度の出来だと言える。可もなく、不可もなく。いや、カッコイイのだけれど。物語はありきたりなものと言える。アクションはカッコイイが、しかしエクスマキナの時のようなカッコよさはない(それはお前がジョン・ウー映画好きなだけだろ)
面白かったが、あと一歩な感じ。それなりに良い出来だったからこそ、もう一声と言いたくなる。そういえば、4DX上映もあるから、そのことを考えているのやもしれない。
……あ、でも玄田哲章さんが凄い良い味出してた。
2015年1月10日土曜日
猫パンチは目玉を抉る。『シン・シティ 復讐の女神(Sin City: A Dame to Kill For)』
本日、TNGパトレイバーと一緒に見てまいりました。
実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。
こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。
とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。
ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。
実のところ、前作を見ていない私。しかしCMで流れる、あのぶっ飛んだアクションを見て「おうおう、俺が見てえのはこういう映画なんだよ!!」ってなわけで、映画館へ。
一応、物語が始まる前にざっくりとですが前作の解説があるので、前作を見なくても大丈夫でした。
こういう映画って一体何を評すりゃいいんだろう、という気分になる。何故かと言うと、視覚的に訴えかけるイメージというのを文章で伝えるのは困難極まりないからだ。いや、それは単に私の文章力の問題なのかもしれないのだが(とか言い始めると、愚痴だけで終わりそうなのでやめる)
まず、この映画の一番の特徴は白黒がメインということだろう。私は3D版を見てないので、そのへんの映像効果については避けて通るとして。ともかく、この映画は何とも言えない浮遊感のような物を常にまとっている。漫画テイストな演出が多く、その上背景がCGらしいCGだったりするのだが、それがいい意味で安っぽい感じなのだ。そんなリアリティの無い感じが、コミックテイストの演出と合い、さらに白黒の画面ともマッチしている。そのおかげか、俳優はリアルなのに、それも含めて全てがコミックのような印象を持つ。何とも漫画よりの実写化、ということなのだろうか(原作も読んでないんでよくわからない)。そんな、実写なのにコミックのような、どこか浮遊感のある映像が一つの魅力。
そして、そのような浮遊感のある映像で描かれるのは、シン・シティ(罪の街)。"Sin"とは、宗教上の罪、原罪のこと。まあ、クライム・シティよりシン・シティのがカッコイイ気はする。アウトローでハチャメチャな展開は、前述のふわふわと浮いたような、コミックのような演出と共に進んでいく。
で、そんな映像は素晴らしい訳なのだが、肝心要の物語はどうなの? というと、これは三つのストーリーが描かれている。悪女に復讐する男と、街の有力議員にポーカーで挑む男、そして愛する男の為に復讐する女。
正直、復讐というストーリーは大好きなんですが、好き故に、やはり挽歌2を超えるものはねえな……というふうに思ってしまう。映像は素晴らしい。だが、物語は言う程でもない。まあ、それよりもカッコイイアクション、映像でしょう。
三つの物語の中で、たぶん一番多く出ているのが、ミッキー・ローク演じるマーヴ。まあ、とんでもない怪力野郎。猫パンチで八百長とかそんな騒ぎじゃない。殴り殺したあと、目ん玉抉り取ってゲヘゲヘ言ってるような奴。コート翻しながら、ショットガンを二丁ぶっ放すのは、本当に映える。
そして、ジェシカ・アルバ。とりあえずお美しい。とにかくお美しい……途中までは。実は最後の最後、復讐を誓うと、なんかパンクロッカーみたいな格好になって現れるもんで、「なんじゃこりゃ……」ってなことに。しかもマーヴが「色っぽいぜ」とか言うもんだから、彼らのセンスは分からない。
とまあ、他にも賭け事にめっぽう強い男や、アジア系のサムライソード使いの女とか、濃ゆいキャラが沢山出てくる。
ざっくり言ってしまうと、いわゆる「雰囲気映画」というやつだと思う。アウトローなクライム・アクションの空気を吸いたいならば、映画館へ。
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