かつてヒーロー物の映画で一斉を風靡した、落ち目の俳優。リーガン・トムソン(マイケル・キートン)。そんな彼が今一度羽ばたく為、舞台俳優としてブロードウェイに立つ。
……というのが、本作のざっくりとしたあらすじ。先程、某◯ahoo!映画のレビューを見てきたが、まあ酷評されたり賞賛されたり。確かに見ていて、人を選ぶ映画だなぁ、とは感じた。
もしコレが、元ヒーロー映画の主役が妄想したり云々して再び舞台に返り咲くサクセスストーリーなら、きっとそういう人も黙って首を縦に振っただろう。だが、これそういう映画じゃない。芸術家になろうとする主人公が、ずーっと苦悩し続ける映画だ。だから、きっと想像していた面白さとは違ったんだろう。
それで、私がコレを見て思ったのは、
エンタメ映画批判に見せかけた、芸術()作品批判。
というもの。
劇中でマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)が言うセリフの中に、「芸術家になれない者が批評家になる」みたいなセリフがあった。調べてみたところ、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言葉らしい。おそらくこの映画の言いたい事は、これなんじゃないのか、と私は思った。
劇中では、エンタメ映画への露骨な批判をするシーンが登場する。ス◯イダーマンとか、アイ◯ンマンとか、ト◯ンスフォーマーみたいなのがチープな感じで踊っていたりする。これだけ見たら、まああからさまに娯楽映画を批判しているのだろうとは思う。だが、リーガンが役者として返り咲いた過程を見ると、どうにもそのようには思えないのだ。
この映画は、シームレスに映像が流れ続ける。リーガンの妄想も、現実も、全て境界無く続く。だから視聴者は、妄想と現実の判断がかなり曖昧になってくる。むろん、それが現実(リアル)ではなく虚構(フィクション)であると仄めかす描写はある。だが、ほとんどそれは曖昧だ。彼が超能力を使うシーンがあるが、それが妄想だと根拠付けする描写はない。
妄想の中で、彼の中の『過去の栄光』=『バードマン』は、彼に囁き続ける。「お前はバードマンだ」と。これは、おそらく芸術家紛いの役者崩れになろうとしているリーガンへの皮肉だと思われる。
バードマンの囁きに、彼は反抗し続ける。だが、やがて彼はソレを受け入れ、自分が求めているのは血や暴力、爆発なのだと知る。
それで、最終的にリーガンが如何にして役者として返り咲いたかと思えば、それは『スーパーリアリズム』とも言うべきものだった。すなわち、自殺シーンを実銃でやって、他の俳優や観客にも『本物の血』を浴びせるというものだ。そんな極度の現実性こそが芸術だ、として彼は再び役者として成功する。
だが、待ってくれ。此処で言う『血』と、俗っぽいエンタメが見せる『爆発』とかって、なんか似たようなもんじゃないのか? スーパーリアリズムなんて言葉で取り繕ってはいるが、要はその場で起きた流血沙汰に興奮しているだけではないか。それでは、結局双方の本質は変わらないじゃ?
映画は、最後にリーガンが入院するシーンで終わる。彼が放った銃弾は、自らの鼻を吹き飛ばした。奇跡的に一命は取り留めたものの、鼻は新しい物に付け替えることに。この時彼がしている包帯が、何ともバードマンのマスクのよう。
そうしてラストシーンで、彼は妄想に浸りながら、病室の窓から飛び出す。それを見つけた娘のサム(エマ・ストーン)が、最後に空を見てニッコリと笑う。それで、この映画は終りだ。
さて、この笑顔の意味は何だったろう。空を見ていた、ということは、やはりリーガンには妄想では無く本当に超能力があった、ということだろうか。だとすれば、それを見てニッコリとした娘の姿は、さながらスーパーヒーローものという実に俗っぽい映画をみて楽しんでいる観客のようにも思える。
で、この映画のタイトル『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』とは何だったのだろうか。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、リーガンが誤って実銃を使った→それによるスーパーリアリズムの確立。という奇跡を表すタイムズ紙の見出しだ。つまり、このカッコの中の文句は、結局リーガンが流血沙汰で客を興奮させることを言っているんじゃないだろうか。で、バードマンというのは、同じく俗っぽいエンタメ映画のこと。
リーガンに残された、役者として再び返り咲く方法。それこそが、”バードマン”あるいは”無知がもたらす予期せぬ奇跡”だったのでは。
と、ちょっと考察してみたが、よくわからん。
まあ、人を選ぶ映画だなぁとは思いました。