2015年11月30日月曜日

クレイグボンド史上、最もボンドらしいボンド。『007 スペクター(Spectre)』

 さて、先日先行上映に行ってきたのですが、完全に放置気味なこのブログに書こうか書くまいかと小一時間考え、結局書くことにしました。

 007シリーズ最新作にして、クレイグボンド最終作と噂されるスペクター。当のダニエル・クレイグは、次回作までは続けるとかなんとか言ってますが、正直言うとクレイグボンドのストーリー(カジノ・ロワイヤル、慰めの報酬、スカイフォール、スペクターの一連の流れ)は、一応の決着を見たような気がします。これで続投というのは、ちょっとどうかな……という感じ。
 しかし、当初は「ボンドの癖にAT限定かよ!」とか「お硬すぎてボンドじゃねえ!」とか何とか言われてましたが、しかしスペクターでは大分馴染んだように思えました。
 そもそもボンドらしさとはなんぞや? 007シリーズ全てを見たわけでない私がこういうのは僭越ですが、しかしボンドのオリジナリティというのは、結局のところショーン・コネリーにあると思われます。で、ショーン・コネリーのボンドっぽさといえば、『ユーモアと気品の中にある冷たさ』では無いでしょうか。女たらしでジョークを織り交ぜ、優雅に振る舞うボンド。しかし、そのユーモアと気品の裏には、冷然と殺しを行う冷たさが有ります。そのエレガントかつクールな印象が、ボンドらしさの一つではないでしょうか。
 では、クレイグボンドはどうでしょう? 彼の場合、すごく硬い演技が何度も示唆されて来ました。決して演技が下手くそなんじゃなくて、役人みたいな印象(そりゃMI6なんだから役人だろ)があるんですよね。常に眉間にしわを寄せて、むすっとして。たしかに、それで殺し屋的な冷たさはあるですが、しかし冷たさを隠すユーモアと優雅さがない。クレイグボンドにある違和感は、それでしょう。
 しかしスペクターでは、それも幾分解決したように思われます。スカイフォールでは、その映像美によってボンドの優雅さを演出することに成功した、と思います。一方でスペクターでは、どちらかと言えばユーモアに重きを置いた感じがあります。スカイフォールがファン向けで、少し芸術っぽさを演出したのなら。スペクターは往年のファンの為のオマージュをしつつ、ユーモラスな娯楽映画としての立ち位置に戻ってきた、といっていいでしょう。現に笑わせるシーンが幾度もありましたし、爆破シーンなんて圧巻。銃撃戦も格闘戦もカーチェイスも盛り沢山。ガジェットもたくさん登場し、更に過去作を思わせるシーンがいくつもありました。娯楽映画としてのあるべき姿に立ち返った気もします。
 しかし、それゆえに敵の描写があまりに陳腐。ありきたりな敵であったようにも考えられます。まあ、スパイ映画なんていくらでもありますし。そもそも007自体もう24作目です。ネタ切れは仕方がない。
 キングスマンやコードネームU.N.C.L.E(実はまだ見てない。明日見ます)など、今年は007に続け! というようなスパイ映画が目白押しでした。そんななかで、その総本山たる007は、娯楽映画かくあるべし! という姿に立ち返り、オールドフューチャーな作品を作り上げてくれました。古典的かつ確立したこのオリジナリティは、どのスパイ映画にもない『ジェームズ・ボンド』というブランドゆえでしょう。
 まあ、今回特に良かったのは、Qがスカイフォールに比べて大活躍してたり、クレイグボンドが女たらしのユーモラスな英国紳士になってたりと、様式美にそってくれたところだと思います。むろん、スカイフォールからの映像美も欠けてはいません。オープング前の死者の日のお祭りのシーンは、特に美しかったです。

 クレイグボンド史上最も007らしい007。これが彼の最後となるかは不明だが、一応の決着はついた! 劇場で見る価値は十二分にある。





 ところで女版ジェームズ・ボンドことジェイミー・ボンド企画を書いてますが、いつのまにレズビアン設定になってるんだ。

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